2013年1月23日水曜日

羽生善治の思考(2010)

羽生善治:1970年生。将棋棋士。1985年に中学生でプロになって以来、無類の活躍をしている。現代将棋界のサンプラス。


将棋の世界は、プロ入りしてからが長い。いま160名の棋士が日本将棋連盟に所属しており、年間60戦ほどの対局を各々こなしている。将棋を指すときには、事前に対局相手の研究をすることが大事で、その人の指し方をみた上で対局に臨む。実際に指すときには、過去の対局を思い出して、それがどのような結果に終わったか、などを考える。「運命は勇者に微笑む」を座右の銘としていて、決断こそが最も大切だと感じている。決断の結果と責任引き受けること、それは、年齢を重ねるに従って学んだことである。

膨大なデータを分析し、判断を下す際に、整理し、選択し、まとめるというプロセスがある。その次にくるのがアイデアを思い浮かべる、という段階。しかし、こればかりだと、いままでの判断がむしろ新しいアイデアがでてくるのを阻害することがある。その場合はいったん「忘れてしまう」というアプローチをとることもある。

美しい棋譜を残したい、というのは日頃から思っている。相手の長所を潰そうとすると、低レベルな争いになってしまう。美しい、という感覚的なものさしによって、手を選ぶときに近道ができる。

25年やってきて、ブレーキを上手くきかせられるようになってきた。若い頃はがむしゃらにアクセルを踏んでいたが、上手にブレーキを踏むことを学んだ。ただ、意識してアクセルを踏み込まないと、自然と減速してしまうようになったから、気をつけている。将棋の世界では、指し方や戦略が目まぐるしく変化するようになってきた。変化の激しいところでは、可能性の低いものには目がいかなくなる。しかし、ここで手間をかけたいものだ。


この本について

専門的なものばかり続いたので、こんなのもどうでしょう。羽生善治氏は、全7タイトルのうち6タイトルで永世称号をもつ、不世出の天才棋士である。

主に将棋の世界で生きる上で、羽生名人が大切にしていることが語られる。200頁あるが実際は70頁くらいのボリュームである。上の要約は、パラパラ読んでいて気になったところをまとめた。

2010年の時点で、羽生名人は既に25年、日々将棋をさしてきて、そのあいだ何を考えて生きてきたのか、想像し難い世界なので、おもしろかった。父親の知り合いに「このまま石を眺めて一生を終えるのかと思うと厭になった」と言って、プロの囲碁棋士になる道をやめて医者になった人がいた。

しかし、羽生名人はそうは考えていないようだ。将棋の世界は、吾々の憶測をはるかに越える、変化に富んだものなのだろう。羽生名人は繰り返し、ともすれば保守的になる自身を戒めている。変化を恐れぬこと、日々研究を怠らぬこと、そして決断すること。羽生名人は、生き生きと、将棋を指しているのだ。

2013年1月18日金曜日

今こそアーレントを読み直す(2009)

仲正昌樹:1963年生。政治思想史を専門とする学者。金沢大学教授。


要約

アーレントは自身のユダヤ系の出自、ナチスによって亡命を余儀なくされた過去などから、ホロコーストに関心をもち、全体主義をその思想を始めるにあたっての出発点とした。アーレントにとって、全体主義とは、未成熟な国家の陥りがちな罠では決してなく、吾々(西洋自由民主主義国家)にも起こる可能性がある、という性質のものだ。彼女がはじめに注目されるきっかけとなった「全体主義の起源」は、その題のとおり、全体主義の歴史的起源を19世紀まで遡って考察している。

アーレントによると、近代的な国民国家は「反ユダヤ主義」「帝国主義」「全体主義」という系譜を辿るという。国民国家は、フランス革命と、その後のナポレオン戦争への対抗の必要から、それぞれの「民族」が結束して誕生したといってもよい。国民として統合するためには、「敵」を設定するのがもっとも簡便な方法である。ナポレオンによって転がり始めた「国民国家」という理念は、その後、自らが転がり続けるためにユダヤ人を「敵」「異質なもの」として選び、迫害しはじめる(ブログ主補)。次に、宗主国のみを利する「帝国主義」は、植民地において自分たちと異なった文化をもつ人間を目撃し、より同一性を高めることを促す。この「同一性」の原理は、「国民国家」の衰退にともなう危機意識を巻き込んで、全体主義へと発展していく。資本主義によって、国民国家の発展に積極的に寄与しようとする意識を失った国民=大衆は、階級意識や政治的な帰属意識を失う。それを動員するために、政党はわかりやすい「世界観」を掲げることになる。

「イェルサレムのアイヒマン」でも、アーレントは同様な主張を繰り返す。ユダヤ人抹殺計画の中核を担ったアイヒマンは、潜伏していたアルゼンチンから拉致され、イェルサレムで裁判にかけられる。アーレントはこの裁判を傍聴・取材し、ホロコーストの原因を探る。多くの人の予想と違い、アイヒマンは悪人ではなかった。決められた仕事をきっちりとこなす、あまりにも普通の役人だったのだ。アーレントが気づいたのは、西洋哲学がその正義の前提としていた「自由意思をもち、自律的に生きており、自らの理性で善を志向する主体」が現実にそぐわないということだった。普遍的な「正義」はアイヒマンの事例では自己矛盾に陥る。ではそもそも「人間本性」とは何なのか。

「人間の条件」において、アーレントは西洋における「人間」の捉え方の歴史を考察する。西洋における「人間性」は、古代ギリシアにその起源をもつ。自由人としてポリスの政治に関与する人間像が、その根本にあった。それが変化したのは18世紀のことで、「人間性」は生まれたまま・自然の状態のことを示し、それを賛美する方向へと向かう。但し、変化したとはいえ、理性的・自律的な人間像は引き継がれている。

古代の人間観をもとに、アーレントは三つの人間の条件を提示する。それは、労働・仕事・活動である。「労働」は、生命活動に必要な営み、「仕事」は人工的(対自然)世界を構築する営みである。マルクスが「本来の」人間性とする「労働」はアーレント的労働・仕事をあわせたものといえる。一方アーレントは「活動」に重きを置く。「活動」とは、人間の集まりにおいて、「複数性」を前提とした論議のことである。「複数性plurality」は、「全体」に対する「多元plurality」であり、官僚的な「一」系統の命令に対する「複数plurality」のことだ。

複数性を前提とした「活動」は、「公的」な空間で行われる。この「公的」は、ポリス的な政治が念頭にある。すなわち、かなりの資産と奴隷をもった、「自由」な、物質的な利害のしがらみを超えた個人が、「ポリスの共通善を真剣に考える」という公の仮面をかぶって演技(act)する場である。

その中で、アーレントは「活動的な生vita activa」を要請するのだ。そういった意味でアーレントは共和主義者だといっていい。アーレントにとって、「自由な空間」における「活動」は善だが、彼女はすべての自由を肯定するわけではない。マルクス主義をはじめとする、「〜からの解放」を唱うものは、複数性を確保しないので、悪である。アーレントにとって「自由」は「活動」「複数性」と不可分の関係にあるのだ。


この本について

戦後における最重要政治哲学者のひとり、ハンナ・アーレントの入門書。最近あまり一般書を読んでいないので、多少専門的になるかもしれないが、一冊要約を書いた。要約では適宜補ったが、論理的な展開が不鮮明な部分が多かった。これは筆者の繰り返しいうように、アーレントやその他の思想家を簡略的に解説している、という理由から、仕方がなかったのかもしれない。用語の揺らぎは許してください。

アーレントは幾冊か手にとったことがあるが、歴史的な文脈・思想史の考察にかなりの分量を割いているので分厚いし、彼女の問題意識を認識していないと、すぐに何をいっているのかわからなくなるので、やめてしまった。そこで入門書を読んでみた。「今こそ」という感じが2009年に本当にあったのか、それは少し疑問である。だが、いまこそ「今こそ」である。次は「革命について」でも読むか。


2013年1月2日水曜日

官僚制批判の論理と心理(長めの要約)

より簡易なまとめ及びコメントはこちら

ロマン主義と官僚制

新自由主義の「小さな政府」論が、実際は官僚制批判に立脚していることからして、近年の新自由主義批判すなわち社会的連帯や平等に関する考察は、的外れであるように思える。そこで注目すべきはもちろん官僚制であって、これを研究せねばならない。

「官僚制」すなわちbureaucracyという言葉の成立は、他の「〜クラシー」と比べて時期が遅れる。官僚制は常備軍とともに、絶対王政下において出現したのだ。官僚制の成立前提として、その組織の継続可能性が高いことがあげられる。なぜなら、ヒエラルキーの末端に甘んずるには、今後上昇する蓋然性が必要だからだ*1。つまり、官僚制が親和的なのは、人々の自由が制限され、秩序の永続性がある程度保障されたリヴァイアサン的国家*2なのである。

官僚制的な機構は、その言葉の成立以前から存在した。それが「オリエント」のもの*3として西洋世界では蔑まれてきたのが、官僚制の積極的な取り上げられ方を妨げていたのかもしれない。西洋世界においては、オイコス(家庭秩序=経済)とポリス(政治秩序)の二元論が古くから存在し、命令を遂行するのみの官僚機構は明らかにオイコス的なものであるから、人文科学では取り扱われなかった。官僚制の起源として、家父長的な社会・家産官僚制があり、その非合理性というのは確実に受け継がれている。家産官僚制と近代官僚制は相対的な違いなのである。

官僚制はそれに対する批判とともに出現したが、18世紀終わりから、これにロマン主義的な批判が合流した。ロマン主義とは、啓蒙思想への対抗だった。功利的な目的のため*4に統制されることへの反発。強力な軍隊や官僚機構をもつプロイセン国家への反発。反官僚の情念である。日本における90年代の不祥事から噴出する批判も、この情念に後押しされた。官僚制批判は、官僚制に内在するものなのだ。よって、むしろそれ迄なぜ批判が抑えられてきたかが問題となる。

デモクラシーと官僚制

ウェーバー*5が官僚制研究の嚆矢である、とよくいわれるが、ヘーゲルの法哲学においてすでに多くの指摘がなされている。ミヘルズという人物が、組織の肥大化と寡頭支配・官僚制をリンクさせ、これをデモクラシーと対置して批判した。ウェーバーはここから、この二項対立を図式化し、官僚支配によるパターナリスティックな性質による人民の政治的未成熟*6を回避するため、政治主導としてデモクラシーを支えることの意味を強調する。

トクヴィルによると、不平等を前提とする社会で格差は問題にならない。しかし、民主化が進むにつれ、格差への憎悪は強まり、それを是正するために政治が肥大化する。デモクラシーは官僚制を呼び寄せて、それと対立し、それを批判するのである。

J.S.ミルは功利主義に質的観点を導入した*7。そして、「個性の尊重」を大衆の同質化圧力に対して強調したのである。「自由論」において、彼は官僚制が

決まりきった仕事をだらだらと続けていくか…<中略>…組織の指導者の誰かが粗雑な議論にほれこんで、まともに検討もしないまま飛びつくか (本書p.52より。原典は山岡洋一訳「自由論」J.S.ミル p.247)

という性質をもつ傾向があることを指摘している。そして、自由と行政は対立するが、行政なしでは自由が存在し得ない、というジンメルの「生と形式」と似た構造の議論を展開する。

正当性の危機から新自由主義へ

宗教的な内乱を鎮めるためには暴力が必要で、近代国家はその唯一の担い手として勃興した。しかし、ホッブス的な状況*8でなく、権力によって治安が確保された場合においては、その「暴力」は正当性を疑われることになる。

ウェーバーの有名な分類による正当性の三つの理念型:伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配*9の中では、現在、合法的支配が一般的になっている。その正当性は、形式主義=官僚制が含む中立性原則への確信に基づく。しかし、官僚制に中立を見出すのが困難なのは、現代日本の官僚制を参照すれば火をみるよりも明らかであり、ウェーバー自身が幾度も言及している形式合理性と実質合理性の対立(すなわち後者が繰り返し復活してきたこと)の観点*10からして、「官僚の正当性」には疑義を差し挟む余地がある。

ハーバーマスは「公正な交換」を前提とする自由主義的資本主義と対比して、国家が市場へ介入することを許す「組織された資本主義(以下、後期資本主義)」に注目した。自由主義的資本主義においては、国家は市場に余計なことをしない限りは、正当性を問われることはない。一方、後期資本主義においては、官僚制が市場に介入することで、資本主義は「政治化」する。ここに二つの危機が生まれる。ひとつは「合理性の危機」すなわち経済システムからの要請に対して官僚制が一貫した態度を貫けなくなるという危機。「予測可能性」や「計算可能性」によって中立性を維持してきた官僚制が、経済の政治化によって恣意化するのである。もうひとつは「正当化の危機」すなわち後期資本主義で経済活動に伴う諸問題の責任をおしつけられることになった官僚制は、介入の消極性または逆に積極性によって非難され、大衆の忠誠を失うのである。

この危機を避けるには、2つ方法があり、ひとつは自律的な「システム」の領域を確保すること。そして経済成長というパフォーマンスを持続的に発揮すること。前者はドイツにおけるテクノクラート批判につながり、後者は高度経済成長とあいまって日本で官僚礼賛が行われたことに通ずる。

バブル崩壊によって正当性の危機が露見し、日本の官僚は一気に批判の対象となり、テクノクラートのイデオロギー、官僚による政治のとりこみなどが非難される。パフォーマンスの低下は、「上からの近代化」というイデオロギーの喪失によることも確かだろう。

新自由主義はもともとサッチャー・レーガン時代からのイデオロギーである。日本において本格的に導入されたのは橋本龍太郎以降であり、これは小さな政府を標榜する新自由主義と上のハーバーマスの議論が重なる部分があったからである。小泉純一郎によって「ぶっこわ」された自民党以降、より多くのデモクラシーを求める声と、小さな政府を唱える声はともに官僚制批判へと向かう

この流れは新自由主義に有利な形で進む。しかし、官僚制の正当性を疑い、より多くのデモクラシーを求めることは正しいとしても、専門家や官僚の有していた正当性を誰が負うのか、という問題からは逃れられない。様々な意見は噴出するものの、決定ができなくなるのである。すると、政治から決定権をとりあげるというまたしても新自由主義に有利な方向に論が進むことになる。

「鉄の檻」以降のカリスマ

ウェーバーにおいては、脱魔術化*11 は貫徹されず、再魔術化がつきまとう。これはいいかえると啓蒙とロマン主義との対立である。恣意的なもの・非合理的なものを社会から取り除くということは、ひょっとすると自由を失うことなのではないか?

官僚制の「鉄の檻」が強まるにつれ、これに対抗し、非合理に振る舞うカリスマが待望される。日本において官僚制が封建的割拠の性質をもつということは繰り返し批判されてきた。そうした中で、責任を担う中心が欠如しているという認識は古くから存在してきた。

バウマンはこれらの議論の前提とされてきた「鉄の檻」がグローバル化のなかで既に消滅しており、かわりに「リキッド・モダニティ」の時代になったと論ずる。こうした状況で一連の新自由主義的な政策が導入されていく。しかし、これはフーコーにいわせると権力性が弱くなったのではなく、新たな「統治性」なのである。あたらしい社会理論と、カリスマを待望する一般的な認識は大きく食い違っている。

ふつう官僚制化は否定的な論調で語られるが、それが政治的な決定の幅を狭めるのに貢献している面があるのは否定できない。脱官僚は政治が新たな決断と説明責任を担うことを意味するのだ。決定できないと「正当性の危機」が顕在化する。

一貫性の乏しい様々な公行政について説明責任を負うよりも、それらを全廃する形で戦うことは一貫的に可能である。よって、強いリーダーシップを求める政治家は新自由主義へ引き寄せられる。しかし、そもそも政治家は信念・一貫性をもつべきなのだろうか?

トクヴィルの場合、ウェーバーのカリスマ対官僚制にあたるのは、中央集権対アソシエーションである。社会関係資本といっても差し支えない。

読み直されるウェーバーの官僚制論

新自由主義が官僚制批判を絡めとっている、という議論を行ったが、グローバル化の圧力が新自由主義を推し進めているという面も、もちろんある。しかし、グローバル化を不可避の一枚岩の流れとして描くのは如何なものか。

たとえばウェーバーは近代化、合理化を必然として書くことを躊躇した。そこで、合理化を分解し、複数の諸合理性として議論したのである。そうすることで近代化が内部に孕む亀裂に目を向けるのである。こうして普遍的とみられるものを相対化する。


*1 ヒエラルキー
官僚制の典型として、軍隊のようなトップダウンの組織を思い描いてほしい。「官僚制」と「官僚」は、ひとまず別モノと考えよう。いつまでも二等兵でいたいと思う者は(恐らく?)いないだろう。上の階級へ昇級する可能性があるから踏ん張るのである。
*2 リヴァイアサン的国家
もちろんホッブズへの言及である。
*3 オリエント
古代エジプト王朝や、ペルシア帝国などをイメージするとわかりやすい。
*4 功利主義
ベンサムが、「何をもって正義と為すか」の原則を求めた上で辿り着いた結論である。ひとことでいえば「最大多数の最大幸福」を目標とする。
*5 マックス・ヴェーバー
エミール・デュルケムと並んで、社会科学の創設者的存在。もともとは経済史学者であったが、その研究の領域を多方面に広げていった。
*6 未成熟な国民
官僚が「未成熟な国民」を前提として、パターナリスティックな政治・行政を進めると、国民は一層未成熟になってしまう。この悪循環を政治主導によって断ち切る必要をウェーバーは説いた。
*7 J.S.ミルの功利主義
ベンサムの功利主義理論は、非常に簡素なものであり、定量的な要因を主な考慮対象としていた。ミルはこれに定性的な要因を加味した。
*8 ホッブズ的な状況
ホッブズは「人は人に対して狼である(Homo homini lupus est)」というように、ともすれば互いに襲い合うような人間本質を前提としていた。
*9 伝統的支配・カリスマ的支配・合法的支配
「伝統的支配」は嘗て一般的であった血統による王朝の支配、「カリスマ的支配」はカストロ、ナポレオンやヒトラー、「合法的支配」は民主的な手続きを重要視する現在の日本を、イメージするとよい。
*10 実質合理性・形式合理性
「ある特定の価値観点を設定し,その達成の度合をさすのが実質合理性概念であるのに対し,特定の価値や内容とは全く無関係に行為や思考の経過が技術的に正確に計算される程度を意味するのが形式合理性である。」(有斐閣「新社会学事典」)ウェーバーは歴史過程として、実質合理性→形式合理性という流れを議論することがある。「悪法も法」とするのが形式合理性で、法以外の実質的価値にどれだけ資するかを眼目にして法律を運用するのが実質合理性である。
*11 脱魔術化
非合理、宗教的なものが淘汰されていく過程。近代化は基本的に脱魔術化の流れであると考えることができる。


3/1/2013改

2012年12月4日火曜日

独立国家のつくりかた(2012)


坂口恭平:建築家。2001年早稲田大学工学部建築学科卒。


 路上生活者は、その日常の中で、独自の価値観を構築している。本を読むには図書館へ行く。水を飲むには公園へいけば良い。都会では、食料調達にも事欠かない。それはもはや、価値観というより、我々と全く異なった『レイヤー』に生きているといえるのではないか。そもそも、家賃というものが何故必要なのだろうか?土地に何故お金を払うのか?生存権を謳った憲法は本当にそれを発揮しているといえるのか?そもそも、色々おかしいんじゃないか?—人間として、その根源的な問いから、作者の旅が始まる。

 プライベートとパブリックとは明確に区別されるのではなく、部分的に重なっている、すなわち『レイヤー』として3次元的に捉えることが出来るのではないか、といった話など。既存の価値観を否定して、全く新しい形で社会をとらえる試行が綴られている。先程の『レイヤー』論は、私に次のプレゼンを想起させた。
http://www.ted.com/talks/lang/ja/jennifer_pahlka_coding_a_better_government.html
法的な意味での公的機関への期待が薄れ、実際その効力も希薄化する中、新たなパブリックとしての、いわゆる『賢い群衆』の萌芽に興奮を覚える。これについては、後日、リンダ・クラットン『WORK SHIFT』のレビューでもまた書きたいと思う。

 著者は3次元的な思考スキームを多用していて(彼の本業は建築家だ)、パブリック論という抽象的な議題に対して、素人でも容易に揮える武器を与えてくれる。自分の思考体系に飽きてしまった読者にとっても、上質な刺激になるだろう。

 補足だが、著者は絵も描く。彼のドローイングの中でも、特に、男性の頭部が都市化して3次元的に無秩序に広がっているモチーフは、人間の生命力と無限の思考を最もシンプルな形で表現しているといえる。私はもの凄く好きである。


 最後に、この本に出てくる『態度経済』というイデオロギーが私は本当に好きだ。そして、知らず知らずのうちにこれの上に生きてきたようだ。『態度経済』って何なの、そう少しでも思った貴方、実際にこの本を手に取られることを切に願う。

2012年12月2日日曜日

自分の中に毒を持て(1993)

著者:岡本太郎−芸術家


 「道で仏に会えば、仏を殺せ」−よく解らないけれどもなんだか凄みのあるこの言葉に、僕は惹かれた。生きるということは、自分を殺すことらしい。

 自己啓発本を超えた自己『爆発』本である。よく『魂を踊らせろ』というフレーズが出てきて、僕はそれを感覚的にわかったつもりで居た。左右の側面をぶち抜いて、直線に飛んで貫いて行くことだと思っていた。しかしそれは違うらしい。彼に言わせれば、それはそれで甘えた考えだと言う。解らなくもないのだ。しかしそこで、その甘えた自分を殺す、そこで血を吐いて、ようやく魂を踊らすことが出来るのだという。そうだろう、その通りだろうと今なら解るのだ。生きることは辛いことだ。

 加えて、彼は何か創造をすることが、人生を実りあるものにすると言っている。消費の空しさは、僕も皆も本当はよく知っている。もう完成度は気にしない。少なくともしばらくは、常に生み続けようと思う。自分と愛する人の人生に、色を付けよう。

 混沌と苦悩を経て、いつか大きく羽化したい人に、是非読んでほしい一冊。

2012年10月31日水曜日

ゼロ年代の想像力(2008)

宇野常寛:1978年生。評論家。立命館大学文学部卒。


まとめ

1980年代以降、相対主義が浸透し、吾々は大きな物語を失った。それにどう対処していくか考えたのが、90年代の想像力であった。碇シンジは、社会的自己実現(エヴァに乗ること)を拒否し、自己像(キャラ)の承認を求めて引きこもる。何かをすれば誰かを傷つけるので、「何もしない」ことを選択する価値観である。碇シンジは、人類補完計画を自らの手で推し進めることで、無條件な承認を得ようとするが、最終的に劇場版ではそれを否定する。ラストシーンにおいて、アスカに拒絶される(「キモチワルイ」)のは、「何もしない」選択は間違っているけれども、他者とのコミュニケーションはやはり痛みを生む、ということを象徴している。

ポスト・エヴァ的に大量に出現した「セカイ系」 ― キミとボクの関係がセカイの危機に直結するようなストーリィ ― は、アスカによる拒絶を嫌い、病的な、往往にしてトラウマを抱えた少女に全承認される筋を辿る。

ゼロ年代の想像力は、これらから一歩進んだものだ。引きこもるのではなく、現実をサヴァイヴすることを選択する。大きな物語が否定され、現実が虚無であることを受け入れた上で、敢えて、決断する。「決断主義」こそがゼロ年代の想像力をよく現している。

ポストモダンが深く進行していない状況では、ドラゴンボール的な数値化された序列の階段を登っていくのが正義であり、成長物語である。90年代以降、大きな物語が失われ、データベースから小さな物語を読み込む吾々は、そういった絶対的な強者の存在を肯定できない。すなわち、「ジョジョの奇妙な冒険」的な、お互いの弱点を、自らの一芸で突き合う、カードゲーム的な状況になる。

そこで、前出のサヴァイヴ感が、「DEATH NOTE」における夜神月的な決断主義を要請する。大きな価値などない、物語を失った吾々だが、引きこもってはおられず、サヴァイヴし、無価値の中から、選びとる決断をしなければならないのだ。ネットの登場によって、吾々は自分が好む小さな物語をデータベースから読み込み、住み分けることが可能になった。しかし、住み分けられるからこそ、敵味方をつくって対立するのである。「バトルロワイヤル」の舞台である学校に象徴されるように、現実において、小さい物語同士は対立する。虚無主義を織り込み済みで、現実をどうサヴァイヴしていくのか。


この本について

おもしろかった。「データベース消費」など、東浩紀の議論を今一度まとめて、2008年版に更新した作品となっている。アニメ、ドラマ、小説などから現代の状況を捉え、吾々がいま、どう生きるべきか問う。

誰だったか、こじつけの本だ、と本書を評していたが、それも否定はしない。つっこもうと思ったらいくらでもできる。だが、これだけまとまった議論を展開できるのには感服するしかない。仮面ライダーをみたくたった。

結局、著者の狙いは、サブカルと呼ばれている文化を、消費する価値も、議論する価値もないと考えている人間に、「どうだ、あんたらが馬鹿にしてるものは、これだけ奥が深いんだぞ」というだけのものなのかもしれない。

2012年10月15日月曜日

最終戦争論(1942)

石原莞爾:1889年生、1949年没。大日本帝國軍人。板垣征四郎とともに、関東軍の参謀として、満州事変を首謀するなど活躍。後に失脚。軍事思想家としても知られる。

要約

戦争には二種類あり、それらは持久戦争と決戦戦争である。前者は政治的なやりとりと傭兵、後者は武力戦及び国民皆兵を特徴とする。歴史の循環として、今迄持久戦争と決戦戦争は交互に現れてきた。西洋においては、決戦(古代ギリシア・ローマ)→持久(帝政ローマ中期から末期)→基督教の支配する暗黒時代(中世)→持久(ルネサンス以降)→決戦(仏国革命以降)→持久(第一次大戦)。これらの変化は、兵器の技術的進化や社会の変化が因となっている。では、いま飛ぶ鳥を落とす勢いのナチスドイツは、決戦戦争の時代への突入を意味するかというと、そうではない。

作戦の変化にともなって、戦争をする単位も、大隊、中隊、小隊、分隊さらには個人と小さくなってきている。個人単位の全国民同士が、次の決戦戦争でぶつかりあう。さらに空軍の導入によって戦場は三次元に広がる。その次は無いのである。つまり、次の決戦戦争で戦争は終わり、世界は統一を迎える。いままでのサイクルが1000,300,125年ときているから、その次は数十年後ということが推測できる。

上の予言は日蓮の教えから導くことも可能である。仏教では時代を正法・像法・末法の三つにわけ、それぞれ千年、千年、万年の計一万二千年。正法、像法及び末法のはじめの五百年の、計二千五百年については、大集経という形で釈迦の予言が伝わっている。それが終わった頃、日蓮聖人が現れ、以降の予言をした。「日本を中心として世界に未曽有の大戦争が必ず起る」というのだ。しかし最近、日蓮の予言が全部解釈され終わったところで、教義に疑義が挟まれた。仏滅の年代測定が違っていて、日蓮は実は像法の人だったという。仏滅が二千四百数十年前であるという最近の説にたてば、日蓮のいう未曾有の大戦争は、数十年後に現れ、不思議と上の理論が導いた結果に整合する。


この本について

本書は莞爾が1940年5月に行った講演を筆記したものである。要旨は上に書いた通りで、数十年後の最終戦争と、後の世界統一を予言している。

おもしろい。軍人だけあって、兵器の技術的な側面や、実務の観点から話ができるので、学者が話すとおもしろくなさそうなものでも、飽きずに読める。

おそらく石原莞爾が高く評価されているのは、日米での最終戦争を予言し、空軍の活躍を予想したなど、先見の明があったと認められているからであろう。莞爾を此処まで偉くしたのは歴史の偶然かもしれない。先見の明は、ともすればペテン師になる。参謀・思想家として非常に優秀であったのは事実だろうが、合理主義的実務家である甘粕正彦が「明後日はあるが、明日がない」と評したというのも、首肯ける。

莞爾は理論家だということを聞く。私はそうは思わない。莞爾は思想家であって、理論家ではない。持久戦争・決戦戦争では、原因が異なる変化について、年数でざっくり割っているのを、私は理論だと思わない。日蓮のくだりは、矛盾も甚だしい。ただ、頭がよかったのは確かなようで、自らの「理論」の非合理な部分は、「仏の神通力」などといって意識的にパトスで包み込んでいる。これが思想家たる所以である。




最終戦争論(青空文庫)