2013年1月18日金曜日

今こそアーレントを読み直す(2009)

仲正昌樹:1963年生。政治思想史を専門とする学者。金沢大学教授。


要約

アーレントは自身のユダヤ系の出自、ナチスによって亡命を余儀なくされた過去などから、ホロコーストに関心をもち、全体主義をその思想を始めるにあたっての出発点とした。アーレントにとって、全体主義とは、未成熟な国家の陥りがちな罠では決してなく、吾々(西洋自由民主主義国家)にも起こる可能性がある、という性質のものだ。彼女がはじめに注目されるきっかけとなった「全体主義の起源」は、その題のとおり、全体主義の歴史的起源を19世紀まで遡って考察している。

アーレントによると、近代的な国民国家は「反ユダヤ主義」「帝国主義」「全体主義」という系譜を辿るという。国民国家は、フランス革命と、その後のナポレオン戦争への対抗の必要から、それぞれの「民族」が結束して誕生したといってもよい。国民として統合するためには、「敵」を設定するのがもっとも簡便な方法である。ナポレオンによって転がり始めた「国民国家」という理念は、その後、自らが転がり続けるためにユダヤ人を「敵」「異質なもの」として選び、迫害しはじめる(ブログ主補)。次に、宗主国のみを利する「帝国主義」は、植民地において自分たちと異なった文化をもつ人間を目撃し、より同一性を高めることを促す。この「同一性」の原理は、「国民国家」の衰退にともなう危機意識を巻き込んで、全体主義へと発展していく。資本主義によって、国民国家の発展に積極的に寄与しようとする意識を失った国民=大衆は、階級意識や政治的な帰属意識を失う。それを動員するために、政党はわかりやすい「世界観」を掲げることになる。

「イェルサレムのアイヒマン」でも、アーレントは同様な主張を繰り返す。ユダヤ人抹殺計画の中核を担ったアイヒマンは、潜伏していたアルゼンチンから拉致され、イェルサレムで裁判にかけられる。アーレントはこの裁判を傍聴・取材し、ホロコーストの原因を探る。多くの人の予想と違い、アイヒマンは悪人ではなかった。決められた仕事をきっちりとこなす、あまりにも普通の役人だったのだ。アーレントが気づいたのは、西洋哲学がその正義の前提としていた「自由意思をもち、自律的に生きており、自らの理性で善を志向する主体」が現実にそぐわないということだった。普遍的な「正義」はアイヒマンの事例では自己矛盾に陥る。ではそもそも「人間本性」とは何なのか。

「人間の条件」において、アーレントは西洋における「人間」の捉え方の歴史を考察する。西洋における「人間性」は、古代ギリシアにその起源をもつ。自由人としてポリスの政治に関与する人間像が、その根本にあった。それが変化したのは18世紀のことで、「人間性」は生まれたまま・自然の状態のことを示し、それを賛美する方向へと向かう。但し、変化したとはいえ、理性的・自律的な人間像は引き継がれている。

古代の人間観をもとに、アーレントは三つの人間の条件を提示する。それは、労働・仕事・活動である。「労働」は、生命活動に必要な営み、「仕事」は人工的(対自然)世界を構築する営みである。マルクスが「本来の」人間性とする「労働」はアーレント的労働・仕事をあわせたものといえる。一方アーレントは「活動」に重きを置く。「活動」とは、人間の集まりにおいて、「複数性」を前提とした論議のことである。「複数性plurality」は、「全体」に対する「多元plurality」であり、官僚的な「一」系統の命令に対する「複数plurality」のことだ。

複数性を前提とした「活動」は、「公的」な空間で行われる。この「公的」は、ポリス的な政治が念頭にある。すなわち、かなりの資産と奴隷をもった、「自由」な、物質的な利害のしがらみを超えた個人が、「ポリスの共通善を真剣に考える」という公の仮面をかぶって演技(act)する場である。

その中で、アーレントは「活動的な生vita activa」を要請するのだ。そういった意味でアーレントは共和主義者だといっていい。アーレントにとって、「自由な空間」における「活動」は善だが、彼女はすべての自由を肯定するわけではない。マルクス主義をはじめとする、「〜からの解放」を唱うものは、複数性を確保しないので、悪である。アーレントにとって「自由」は「活動」「複数性」と不可分の関係にあるのだ。


この本について

戦後における最重要政治哲学者のひとり、ハンナ・アーレントの入門書。最近あまり一般書を読んでいないので、多少専門的になるかもしれないが、一冊要約を書いた。要約では適宜補ったが、論理的な展開が不鮮明な部分が多かった。これは筆者の繰り返しいうように、アーレントやその他の思想家を簡略的に解説している、という理由から、仕方がなかったのかもしれない。用語の揺らぎは許してください。

アーレントは幾冊か手にとったことがあるが、歴史的な文脈・思想史の考察にかなりの分量を割いているので分厚いし、彼女の問題意識を認識していないと、すぐに何をいっているのかわからなくなるので、やめてしまった。そこで入門書を読んでみた。「今こそ」という感じが2009年に本当にあったのか、それは少し疑問である。だが、いまこそ「今こそ」である。次は「革命について」でも読むか。


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