宇野常寛:1978年生。評論家。立命館大学文学部卒。
まとめ
1980年代以降、相対主義が浸透し、吾々は大きな物語を失った。それにどう対処していくか考えたのが、90年代の想像力であった。碇シンジは、社会的自己実現(エヴァに乗ること)を拒否し、自己像(キャラ)の承認を求めて引きこもる。何かをすれば誰かを傷つけるので、「何もしない」ことを選択する価値観である。碇シンジは、人類補完計画を自らの手で推し進めることで、無條件な承認を得ようとするが、最終的に劇場版ではそれを否定する。ラストシーンにおいて、アスカに拒絶される(「キモチワルイ」)のは、「何もしない」選択は間違っているけれども、他者とのコミュニケーションはやはり痛みを生む、ということを象徴している。
ポスト・エヴァ的に大量に出現した「セカイ系」 ― キミとボクの関係がセカイの危機に直結するようなストーリィ ― は、アスカによる拒絶を嫌い、病的な、往往にしてトラウマを抱えた少女に全承認される筋を辿る。
ゼロ年代の想像力は、これらから一歩進んだものだ。引きこもるのではなく、現実をサヴァイヴすることを選択する。大きな物語が否定され、現実が虚無であることを受け入れた上で、敢えて、決断する。「決断主義」こそがゼロ年代の想像力をよく現している。
ポストモダンが深く進行していない状況では、ドラゴンボール的な数値化された序列の階段を登っていくのが正義であり、成長物語である。90年代以降、大きな物語が失われ、データベースから小さな物語を読み込む吾々は、そういった絶対的な強者の存在を肯定できない。すなわち、「ジョジョの奇妙な冒険」的な、お互いの弱点を、自らの一芸で突き合う、カードゲーム的な状況になる。
そこで、前出のサヴァイヴ感が、「DEATH NOTE」における夜神月的な決断主義を要請する。大きな価値などない、物語を失った吾々だが、引きこもってはおられず、サヴァイヴし、無価値の中から、選びとる決断をしなければならないのだ。ネットの登場によって、吾々は自分が好む小さな物語をデータベースから読み込み、住み分けることが可能になった。しかし、住み分けられるからこそ、敵味方をつくって対立するのである。「バトルロワイヤル」の舞台である学校に象徴されるように、現実において、小さい物語同士は対立する。虚無主義を織り込み済みで、現実をどうサヴァイヴしていくのか。
この本について
おもしろかった。「データベース消費」など、東浩紀の議論を今一度まとめて、2008年版に更新した作品となっている。アニメ、ドラマ、小説などから現代の状況を捉え、吾々がいま、どう生きるべきか問う。
誰だったか、こじつけの本だ、と本書を評していたが、それも否定はしない。つっこもうと思ったらいくらでもできる。だが、これだけまとまった議論を展開できるのには感服するしかない。仮面ライダーをみたくたった。
結局、著者の狙いは、サブカルと呼ばれている文化を、消費する価値も、議論する価値もないと考えている人間に、「どうだ、あんたらが馬鹿にしてるものは、これだけ奥が深いんだぞ」というだけのものなのかもしれない。
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