要約
戦争には二種類あり、それらは持久戦争と決戦戦争である。前者は政治的なやりとりと傭兵、後者は武力戦及び国民皆兵を特徴とする。歴史の循環として、今迄持久戦争と決戦戦争は交互に現れてきた。西洋においては、決戦(古代ギリシア・ローマ)→持久(帝政ローマ中期から末期)→基督教の支配する暗黒時代(中世)→持久(ルネサンス以降)→決戦(仏国革命以降)→持久(第一次大戦)。これらの変化は、兵器の技術的進化や社会の変化が因となっている。では、いま飛ぶ鳥を落とす勢いのナチスドイツは、決戦戦争の時代への突入を意味するかというと、そうではない。
作戦の変化にともなって、戦争をする単位も、大隊、中隊、小隊、分隊さらには個人と小さくなってきている。個人単位の全国民同士が、次の決戦戦争でぶつかりあう。さらに空軍の導入によって戦場は三次元に広がる。その次は無いのである。つまり、次の決戦戦争で戦争は終わり、世界は統一を迎える。いままでのサイクルが1000,300,125年ときているから、その次は数十年後ということが推測できる。
上の予言は日蓮の教えから導くことも可能である。仏教では時代を正法・像法・末法の三つにわけ、それぞれ千年、千年、万年の計一万二千年。正法、像法及び末法のはじめの五百年の、計二千五百年については、大集経という形で釈迦の予言が伝わっている。それが終わった頃、日蓮聖人が現れ、以降の予言をした。「日本を中心として世界に未曽有の大戦争が必ず起る」というのだ。しかし最近、日蓮の予言が全部解釈され終わったところで、教義に疑義が挟まれた。仏滅の年代測定が違っていて、日蓮は実は像法の人だったという。仏滅が二千四百数十年前であるという最近の説にたてば、日蓮のいう未曾有の大戦争は、数十年後に現れ、不思議と上の理論が導いた結果に整合する。
この本について
本書は莞爾が1940年5月に行った講演を筆記したものである。要旨は上に書いた通りで、数十年後の最終戦争と、後の世界統一を予言している。
おもしろい。軍人だけあって、兵器の技術的な側面や、実務の観点から話ができるので、学者が話すとおもしろくなさそうなものでも、飽きずに読める。
おそらく石原莞爾が高く評価されているのは、日米での最終戦争を予言し、空軍の活躍を予想したなど、先見の明があったと認められているからであろう。莞爾を此処まで偉くしたのは歴史の偶然かもしれない。先見の明は、ともすればペテン師になる。参謀・思想家として非常に優秀であったのは事実だろうが、合理主義的実務家である甘粕正彦が「明後日はあるが、明日がない」と評したというのも、首肯ける。
莞爾は理論家だということを聞く。私はそうは思わない。莞爾は思想家であって、理論家ではない。持久戦争・決戦戦争では、原因が異なる変化について、年数でざっくり割っているのを、私は理論だと思わない。日蓮のくだりは、矛盾も甚だしい。ただ、頭がよかったのは確かなようで、自らの「理論」の非合理な部分は、「仏の神通力」などといって意識的にパトスで包み込んでいる。これが思想家たる所以である。
最終戦争論(青空文庫)
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