2012年4月28日土曜日

暴力団(2011)

溝口敦:ノンフィクション作家。暴力団について取材・執筆を長年行っているらしい。




要約


暴力団対策法で指定されたものを「指定暴力団」と呼ぶ。これが22団体。暴力団は、ピラミッドが何層にも重なった構造をしている。五次団体まである暴力団もある。山口組(神戸)、稲川会(東京)、住吉会(東京)を警察庁は特に重視している。

山口組は全暴力団の構成員数の半分弱をしめる。本家には六人の舎弟、80人の若衆がいる。舎弟とは組長の弟、若衆はこどもという位置づけである。かれらは直系組長。若衆の中で長男にあたるのが若頭。直系組長たちは、毎月100万弱の会費を本部におさめる。これはじぶんたちが活動できるのが「代紋」のおかげと考えるからである。さらに積立金を30万、日用品の購入を50万以上おこなっている。さらに、なかまの直系組長が引退するときには100万積む。ただ、直系組長たちも、二次団体の組員から月々20−30万ずつ月会費を集めている。出世には二つ道があり、ひとつは暴力団同士の抗争で名をあげること、もうひとつは金をたくさん上納することである。対立相手の組員を殺傷し、逮捕され、無事刑期を終えて出所したときによい待遇を受けられる。が、これも貧乏な組では無理なのだ。

シノギ(資金獲得活動)には覚醒剤、恐喝、賭博、ノミ行為などがある。覚醒剤は表向きには禁止されているが、儲かるので上層部も見て見ぬ振りをしているようだ。末端価格は、原産地の出荷価格の150倍なのである。野球賭博の胴元をやってたこともある。賭博の胴元は、もめたときに警察に届ける訳にもいかないので「強く、資金力があり、金の貸し借りにきちんとした信用がある」暴力団しかできなかったのである。闇カジノというのもある。はやる店なら一晩一億の金が動き、5%が入る。キャバクラやクラブのホステスを使って客を連れ込ませるのである。みかじめ料というのもある。暴力団排除条例で払ったほうも罰せられるようになったので、ビルのオーナーがとりたてて上納する、などしている。解体や産廃処理でももうける。

暴力団は中卒や高卒が多い。暴走族あがりというのもかつては多かった。組に入れば、部屋住みになる。こづかいはもらえるが、とてもやっていけないので、兄貴分のシノギについていく。そうして組長から親子の盃をかわすまでになる。これは省略されることも多いらしい。博徒系はテキ屋系に比べて儀式がちゃんとしていないらしい。正式な組員になれば、組長に金を差し出すことになる。刺青は掘らなければならないわけではない。が、入れる人は入れる、そしてC型肝炎になるのである。組を抜けるのは大変で、指詰めを迫られることもあるし、お金を積まなければいけなかったりする。

警察とは仲良くやってきた。暴力団対策法は、警察のためにつくったともいわれている。だが、暴力団は警察との関係を断とうとしており、失敗に終わった?事件が起きたとき、上は捕まえないから下手人をだせ、というような交渉が行われる。芸能はもとより暴力団とのつながりが強い。場内整理に便利だし、チケットを売りさばいて赤字を防ぐなどにも使える。ただ政治的な影響力はあまりもっていないようだ。暴力団がなくならないのは、警察における暴力団対策の部署をなくしたくないからだ。



この本について

とくにコメントすることはない。雑多な知識が詰め込まれた読み物であって、分析ではないからだ。いってみれば新聞記事の寄せ集めのようなもので、読んで一通り暴力団のことをわかったような気がするだけのものである。

Jポップとは何か(2005)

烏賀陽弘道:ジャーナリスト。京大経済学部卒。朝日新聞入社からアエラの編集になる。


要約


Jポップとは、音楽上の分類を表す言葉ではない。これは、マーケティングのためにつくられた言葉である。1988年、J-WAVEというFMラジオ局が開局した。テープへの録音を前提とせず、常にJ-WAVEを流しておけばいい、という趣旨の番組編成で、DJは英語話者で、世界中から選りすぐりの楽曲を絶え間なく流した。都会的で多文化的なブランドを確立した。当初、日本の楽曲を流さなかったJ-WAVEに対して、レコード会社が攻勢をかけ、J-WAVEっぽい日本の曲を流すことで合意した。ここで生まれたネーミングがJポップである。しかし、ここに明確な基準はなく、山下達郎やサザンはOKで、アリスやチャゲアスは違う、というような曖昧なものだった。どの洋楽に影響を受けたかすぐにわかる邦楽、というくらいの選定だったようだ。文化的にも日本が世界に比肩するという幻想を日本人にみさせることで、売り上げを獲得する。JRやJTの誕生。そしてJポップの登場によって、歌謡曲や邦楽が死を迎える。歌謡曲、ロック、フォークなどを解体してシャッフルした。1992年のJリーグ以降、J〜という言い方が定着した。

タワーレコードが80年に日本に進出。輸入レコードの販売を行い、日本のレコード会社は低迷。そこに登場したのがCDである。フィリップスとソニーの共同開発によって誕生。フィリップスは60分にしようとしたが、ソニーは第九が入るよう74分にすると主張し、それから逆算して12センチの規格に落ち着いた。CBSソニー静岡工場で世界で初めてプレスされたCDはジョエルのニューヨーク52番街だったそうだ。16万だったプレイヤー価格を5万に引き下げてCDを普及させた。安くなったので、皆がプレイヤーを買い、CDを所持する時代になった。女性や若者も。この帰結として、ガールズポップが売れた。そして、作り手にもデジタル化の波は押し寄せる。たとえばピッチ修正、シーケンサー、サンプラーやMIDI。制作環境にも変化が表れ、スタジオは小さく、コストダウン。音楽は商品になり、音の個性がなくなっていく。

テレビが音楽の主要な舞台へ。CMタイアップの手法が誕生。吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫などのフォーク勢は当初テレビへの出演を拒否していた。矢沢永吉などもこの系統。しかし、資生堂のCMタイアップや、ベストテンなどでそういった風潮に変化。そして時代はサザンオールスターズへ。彼らはロックバンドでありながらテレビにでまくった。MTVからミュージックビデオの時代へと移っていく。マイケルジャクソンなど。全体の流れは聴覚型から視覚型へ。それが顕著に現れたのが、安室奈美恵などのダンス音楽、そしてヴィジュアル系。音楽産業は、音楽業界、テレビ、広告代理店のJポップ産業複合体へ。そうして、レコード会社ではなく芸能プロダクションが力をもつようになっていった。リスク回避の体質や、ヒットサイクルの短期化が鮮明になっていく。売れる大物はCMに使われて、さらに売れる。一方売れない音楽家はずっと売れないまま。

カラオケと音楽。それまでスナックなどが中心だったカラオケだが、80年代後半のカラオケボックス登場以来、若者へ普及。爆発的な浸透によって、シングルとアルバムの順番が入れ替わる。パンク→バンドブーム→カラオケの流れ。一貫して自己表現というのがある。社会への反発ではないのだ。総中流化から個性の渇望へ。パルコは渋谷消費空間=広告空間をつくった。そしてピチカート・ファイヴやコーネリアスなどの、渋谷系といわれる極めて日本色の弱い音楽が人気を博していく。彼らは、Jポップ誕生の際に欠けていた共通の音楽性に一定程度の形を与えることになる。Jポップの自己愛ファンタジーは誕生以降つねに健在で、英語詞をとりいれたものが多くなり、疑似国際性を売りにした宇多田ヒカル、椎名林檎、ラルク・アン・シエル、ラブ・サイケデリコなどが人気を博す。

日本は世界で二番目に大きな音楽市場をもっている。個人としてのCD購買量は第四位だが人口が大きいぶん市場も大きくなる。そして、大量の海外音楽が輸入されている。その額は全体の四分の一。一方、JASRACが回収している海外からの著作権料は少ないし、ほとんどがアニメ音楽である。日本では、米国と違って極めて均一な市場であるため、プロモーション効果が大きい。CDは再販制のため、高いまま。音楽は公共財という意識がなく、FM局の数は少ないし、レンタルだって業界からの強い反発をなんとかはねのけて実現した。ヒットをつくる、という体質へ。スキャットマン・ジョンやカーディガンズなど。音楽以外の部分でうっていく。

世紀をまたいで、Jポップは活気を失った。レコード会社の負担が過度になって、新人デビューが削られていく。景気が冷え込み、少子化が進む。10代を対象に施策を打ってきたから他の年齢層むけのコンテンツがなかった。そこでリバイバルである。流行に貪欲な層が、テレビからネットへと移った影響もある。収入源は着メロやDVDへ。モンゴル800など、インディーズの台頭というのもある。もともと著作権料を払う受け皿の団体はなかったが、整備されていった。政府行事への参画というのもある。これも、Jポップの巨大産業化がなせるわざだった。製品外競争に陥った日本の音楽産業は、今後どうなるのか。




この本について


80年代以降の日本音楽産業略史である。Jポップとは何かという問いには、はじめの章で殆ど答えてしまっているのだが、そこから日本の音楽産業に対する興味へと読者を誘う仕掛けが憎い。いままでなんとなく変化を肌で感じてきたものに説明が付されるとわくわくする。メディアや技術と、音楽産業のつながりがスッと整理されているのである。

ただ、2005年に出版された書物なので、いま扱うには古すぎる。着メロが大きな市場になっているという記述をみて、思わず笑ってしまった。インターネットを介しての音楽配信よりも大きくとりあげられているのだ。世界の音楽市場は、ナップスターの登場によって大きく変わった。そして、iTunes以降、その流れは決定的になったものだと思う。

坂本龍一が、CDの売り上げだけではミスチルみたいな大物以外食っていけなくなったので、アーティストはライブまわりを強いられている、ということをいっていた。テープ×FMラジオを、CDの違法コピーが代替したという議論もあるので、一概にはいえないが、ウィニーなどのP2Pでの音楽共有が盛んになって以降、その音楽産業への影響は遥かにエアチェックを超えるようになっただろう。これは日本に限ったことではない。ウェブ(およびブロードバンド)の普及、創作の簡易化・安価化など、テクノロジーの革新によって、音楽業界は根本的から変化している。そして、業界全体への影響とともに、音楽家自身にも変化が表れてきており、わたしはウェブ以降のアーティストを二つに分類できると考えている。

ひとつはウェブ世代アーティストである。彼らは、Myspaceをはじめ、Vimeo、ニコニコ動画など、ウェブ上のメディアによって自らの製作を世に広める。たとえば米国のハッピーロックバンド、「OKGo」がブレイクしたきっかけは、低予算のミュージックビデオ(家庭用ビデオカメラ代のみ?笑)だった。しかし、ウェブ上での成功をうけて、CDを配り、収益をあげるという構造は、2007年当時いっしょだった。が、それが変わるのも時間の問題だと思う。レディオヘッドが新作を「購買者が価格を決める」方式で(もちろん0円というのも可能)ダウンロード販売する試みを行ったのは既に5年前だ。彼らはこの方式を二度と採用せず、次の作品"The King of Limbs"からは定価のダウンロード販売か、CDか、レコードか、またはアート作品などが同梱されている"newspaper album"か選択できるようにした。わたしは紙ジャケットのCDを購入したが、それで中身が気に入ったら"newspaper album"を買うつもりだった。

音楽はデータであり、データに高いお金を払う人間はいない、ということに音楽業界もそろそろ気づくべきなのだ。東浩紀のいうように、「ひとは、手に取れるパッケージが〔ママ〕経験にしか金を払わない」。ニコニコ動画が生んだスター、神聖かまってちゃんのフロントマン「の子」は、CDの創作に関心がなく、新作はひとりで仕上げて次々に自らのサイトにアップロードしていく。もちろん無料で。ガレージバンドで全楽器を演奏し、初音ミクに歌わせて、ニコニコ動画で発表している人間は収益化を求めているだろうか?音楽で食っていこうと思っているだろうか?

もうひとつはライブアーティストである。ホワイトストライプスなどはその典型だろうし、U2やミューズなどもライブを軸に活動を行って、CDも売れに売れた。先程とりあげたレディオヘッドも充実した生演奏ライブを精力的に提供するが、彼らはウェブ配信、音楽データのパッケージ販売を総てこなす、希有な次世代アーティストである。坂本龍一曰く、CDを買わないがライブに来る人はたくさんいるそうだ。CDを「買わない」だけで「きいてない」わけではないと思うが、とにかくライブをやらなければ食っていけないし、ライブがよければ食っていけるのである。これは「ライブという体験」にはお金を払う価値を見いだす余地があると人々が認識しているということだ。

坂本龍一はYMO時代から、シーケンサーの自動演奏などを使ったライブを行ってきた。テクノミュージックのライブというのは、いってしまえば何で行くのかよくわからない。ダフトパンクやファットボーイスリムのライブに行くのと、彼らの音楽をかけるクラブにいくのとはどう違うというのか?ゴリラズや初音ミクのライブに足を運ぶひとも多くいるので、「体験としてのライブ」がテクノロジーによって損なわれるとは一概にいえないが、坂本龍一が、「体験性」の色濃いピアノ演奏ツアーを近年精力的に行っているのは示唆的だと思う。


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2012/5/3

追記:

ふと思ったが、商業ロックやヘヴィメタルへの「代替」として生まれたオルタナティヴ・ロックはその存在の意味からいってJポップと似通っているように思う。「alternative」という語になんらの意味は無いし、音楽的には、むしろバラバラである。オルタナティヴが台頭したといえるのは、ニルヴァーナ以降でJポップの始まりと重なる。ロック的な要素を少しでももっていたら、Coldplayなんかもオルタナティヴにいれてしまう昨今のロック事情はJポップのそれと非常に似通っているように思える。

2012年4月27日金曜日

私の個人主義(1914)

夏目漱石:日本を代表する小説家。



要約


大学を卒業後、学習院に就職する、という話があった。しかし、それは有耶無耶になってしまって、本日まで学習院にはいったことはなかった。結局高等師範にいった。一年経って伊予の学校へ。そこも一年だけ。次は熊本の高等学校。熊本はだいぶ長かったが、あるとき文部省から英国留学の話がきた。何の目的ももたずに外国に行ったからって、別に国家のために役に立つことはなかろうと思って、断るつもりだったが、結局いった。

英文学という学問をやった。3年勉強して、なんなのかよくわからない間に終わってしまった。なりゆきで教師になったが、英語は教えられるけども、職業としての教師に興味はないし、「何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪まらな」かった。学問をしたいにはしたいが、なにをすればよいのかわからない。留学中は、いくら本を読んでも腹に落ちなかった。そうして、文学というものはなんであるか、自分で根本から考えざるを得ないと悟ったのである。

日本の学問は、借りてきたものだった。どこぞの英国人がいったことを、どうだ、こういってるぞ、というだけで仕事ができたのである。それは他人本位であって、他人のものであるのにはかわりない。外国人だから、自分の批評が本場の批評と違っていたら、引け目を感じるのは仕方ない。しかし、違っているからどちらが正しいということではなくて、その矛盾を説明すること、それこそに意味がある。こうして「自己本位」を手に入れた。文学論などは失敗してしまったが、この四文字はまだわたしの中で強く生きている。諸君らへの助言としては、「もし途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思う」。

さて、学習院の若者たちは、もともと権力と金を手に入れるという順当なルートにのっている。自分の好きなことで個性を発展させるうち、それを他人にも適用させようとする誘惑が働く。ときにそれは権力と金をもってする。しかし、他人にも個性を尊重するべきだ。義務を伴わない権力などというものはない。金力についても同様である。「自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない」し、「自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならない」。つまり、「いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もない」。



この講演について


これは、要約をみてもわかるように、漱石が学習院でおこなった講演をテクストにしたものである。「赤シャツ」のエピソードなど、彼自身の人生をふりかえって、これから生きる上でなにを心懸けるべきか、若者に語りかける。

ふたつ主題があって、ひとつは、思ったことはやりなさい、ということ。漱石の人生そのものだ。そしてもうひとつが個人主義である。自由が義務を伴う、という英国の風潮に日本も見習うべきだとする。日本人は自由の意味を履き違えている、という主張である。

自由について少し考えてみたが、うまくまとまらなかったので、ここには記さない。政治的な自由と同列に論じようとしたが、どうやら漱石の主張はこれとはまったく違ったところにあるようである。


私の個人主義(青空文庫)

2012年4月9日月曜日

現代日本の開化(1911)

夏目漱石:日本を代表する小説家。本名夏目金之助。1867年生まれ、1916年没。解説は不要かもしれない。明治期を代表する知識人であり、新しい表現を多く創りだした。



要約


昨今よくいわれている「開化」について講演する。ひととおりの定義として、「開化は人間活力の発現の経路である」。そしてそれには二通りあって、ひとつは積極的なもの、もうひとつは消極的なものである。積極的なものとは、活力をより消耗しようとする運動、そして消極的なものは活力の消耗を節約しようとする運動である。前者は道楽、後者は義務。

道楽という活力消耗を伸ばそうとする、これも開化。そして義務を減らそうとする、これも開化である。前者は例えば、観光地にエレベーターがつくなど。後者はといえば、人力車が、自転車、汽車になるといった具合。このふたつは、我らが生まれながらにもっている性質としない限り、説明ができない。人類が自然と開化の方向に向かうのである。しかし、開化によって世の中の苦痛が少なくなる訳ではない。むしろ、いまは生きるか死ぬかではなく、生きるか生きるかの争いとなって、尚のこと生きにくい。

以上は一般の開化の話。日本の開化というのはまた別であり、これは外から強いられた開化である。西洋が百年かけたのを、十年で行おうってもんだから、「皮相上滑りの開化」になってしまう。波が波を生み出すのではなく、外からきた波に無理やり乗らされているだけなのである。



この本について


わたしの中学・高校の国語教師は、漱石を読まずに日本語を語るべきでないと考える人であった。授業時間の関係で漱石をとりあげることはなかったが、「こころ」は是非読みなさいというので、そのときは特に何を思うでもなく読んだ。彼の口癖は、日本人は自由に義務が付随することを解っていない、精神が近代化しきっていない、というものだったが、その元となったのがこの講演なのは明白である。そんなもの日本人に限ったことではないだろう、と当時わたしは考えていたが、今となってはそんな気もする。

さて、これは1911年に和歌山で行われた漱石の講演を文字に起こしたものである。漱石はこのときの体験をもとに「行人」の一部を書いたらしい。わたしは青空文庫という有り難いサイトを利用して読ませてもらった。講演なので、冗談がよく入り、また謙遜や、その場で思いついた例なんかも、小説とは違って、好い。

真新しい議論ではないが、果たして百年前はどうだったのか。果たして日本人は近代化されたのか。いまでも通用するような気もするし、近代以降に生活する吾々にとっては古臭い議論のようにもきこえる。少し話しぶりが冗漫で、まとめてみるとつまりは上の要約以上でも以下でもないので、明治の知識人がどのような話し方をしていたのか、ということに興味がない限り読む必要はあまりないのかもしれない。

10/7/2012改


現代日本の開化(青空文庫)