前提
2008年から2011年にかけて鹿児島県阿久根市長を務めた竹原信一氏の市政について、多角的に分析する試み。阿久根市は人口二万強の小さな町であり、これが全国に知れ渡るようになったのは竹原氏による破天荒な政治手法による。
ブログ市長竹原信一の市政 (彼のブログ「住民至上主義)」
小泉構造改革が産み出した地方の疲弊が背景にある(地方交付税交付金の大幅削減など)。竹原は二年半市議として、斎藤市政を批判。12年務めた前市長の後任が一本化できないまま、三つ巴の選挙へ。接戦を制し、市長に。選挙期間中にもブログを更新、「改革派」を自認←市役所人件費・市議の削減、市民サービスの拡充を公約。
落としたい議員ネット投票、市職員給与公開問題、一連の騒動にマスコミは好意的であった。市議会事務局職員人事を自ら行うも、これは市議会議長に任免権があり理由を付さない降格人事も違法である。税金を使っている意識を高めるため、各課に総人件費を記した張り紙をするも、これがすべて剥がされる事件が発生。不信任→失職→出直し選挙→僅差で国交省出身の田中勇一に勝利
組合の追放、張り紙事件の犯人は懲戒解雇処分に。解雇された職員は不当解雇を訴えて裁判に訴えるも、地裁命令に市長は従わず。障害者蔑視(?)のブログ記事事件。医療の進歩で淘汰されるべき人間が生き残っていると指摘。課税に関する住民情報の提出を要求→担当者の拒否には自らの人事権を示唆することで対応。
マスコミ5社を議場から退去させるという事件が起こる。議会は混乱し、マスコミを退場させない議会に市長は激昂、欠席、以後議会を招集せず。それから、立て続けの専決処分を行う。ボーナスの半減、花火規制条例など。専決処分の違法性を指摘した上申書(ほぼ全職員が署名)はシュレッダーにかけられる。こうした自体に国でも懸念が表明される。鹿児島県から助言及び勧告されるも、市長はこれを無視。同じ頃、後にリコール運動の中核を担う「阿久根の将来を考える会」が発足する。
副市長に元愛媛県警仙波敏郎が専決処分で選任。任命の適法性は甚だ疑問。副市長の進言を受け入れるという形で議会を再び開催。通常、議会の同意が必要な副市長人事は否決されるも、それによって人事を事実上承認したと市長に看做される(もう全く意味がわからない)。市長派の議員がたてこもる、議会籠城事件が発生。リコール→出直し市長選→リコール運動中心人物の西平氏に僅差で敗れる。
問題点
劇場型政治→しかし感情的な対立より一部マスコミ排除。自分の意図が思った通りに報道されないことへの憤り。ブログへ映像を無断で添付したことへの抗議に腹を立てて取材拒否、など。ブログを旧メディアが取り上げ、宣伝した、という相乗効果があった。ブログの読者が若年層であることに対し竹原氏の支持者は高齢者が中心。
ラベリングの政治、抽象化された政治、感情の政治。そしてなにより、マスコミが団結して抗わなかったこと。風変わりな市長について報じれば視聴率がとれる、という安直な考えだったんじゃないか?
政治の文法が崩壊しつつある。ジェラシーの政治。要するに世の中の不平等感を煽って人気をとる。二元代表制。権力のチェックは地方自治体の首長では限界がある。だから政治主導は控えるべき。
政治家に限ったことではなく、世論の傾向として新自由主義的心性がある。これが浸透して、改革のためならルールを変えても構わないという空気がある。そしてこれが敵を設定してたたく、ジェラシーの政治へと通じる。自治と民主主義、人権との関係が問われるべき。地方議会を機能させることも大事。「他者や異なった意見を尊重し相互に信頼する態度」に留意しなければならない。地域メディアの重要性。使命感もって、ちゃんと取材に来い、と。
この本について
「何が起こったのか」と「何が問題なのか」と大きく二部にわかれており、前半では主に時系列順で竹原氏の市政を追い、後半ではその地方自治としての問題点を、限られた出典をはさみつつ分析する。ですます調で、非常に読みやすい。前半部は、(おそらく)新聞記事などを元にした、事件、市政の経緯などを記述的に紹介している。阿久根問題入門としてちょうど好い。
現代政治についての記述は、特に批判的な意味合いがこめられた場合、歴史的な文脈、根拠を省いて(意図的にか、単に調べないのか)論じられる場合が多いと思う。そのぶん著者は政治史が専門らしく、批判の際の比較事例も幅が広く、歴史的な文脈に阿久根問題を埋め込んで説明されているので説得力がある。限られた出典というのは、要するに数が少ないということで、一般の読者が興味をもちやすいような文献で、実際に手にとってみるのも悪くないな、というような良書ばかりが選ばれている。
竹原市政全体について、様々な角度で考察するのを目的としている故、政治の議論としては多少パッチィなものを感じた。ただこれも恐らく著者の意図する処で、竹原市政からどのような議論をしたらよいのか、今後の議論に竹原市政から何を学べるのか、というもののとっかかりにすればよい、くらいな考えなのかもしれない。そういうことなら、よい本だと思うし、目的は遂げられているとも思う。
少し気になるのが、前半部で著者が竹原氏の一挙手一投足すべてを批判してしまうような勢いであるという処である。先程のような著者の意図があるならば、それはそれでよいのかもしれないが、如何にも著者が竹原氏を嫌っているようで、理論的な整合性があまり判然しない箇所もある。同じことをやっても、橋下氏に対しては非難が降らないようなのも批判される対象になっているような気もする。同じ政治学者であっても、橋下氏を部分的に支持しながら(東国原氏については知らんが)、竹原氏については政治家として話しにならない、というような判断をする人が多いと思う。
何が竹原氏をここまで嫌われ者にするのか。これは、ひとつひとつの政策の問題ではない。違法な状態をつくりだし、それを意に介さない彼の人間性を疑問視している、というのが本当のところではないか?ポピュリスト的な政治を批判する意見は当然あるだろう。しかし、竹原市政で問題なのは、違法状態が放置されたこと、そして「首長の暴走」を止める術が不足していたこと、これである。
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