2012年3月14日水曜日

じぶん・この不思議な存在(1996)

鷲田清一 : 哲学者。専門は臨床哲学、倫理学。世の中との関わりを重視する立場。現象学者。京都大学文学部出身、関西大学教授、大阪大学教授、大阪大学総長を経て、現在大谷大学教授。著書多数。


要約

「じぶん」は、考えれば考えるほど不確かな存在である。「じぶん」を探そうとして、自分に固有の特性を探そうとすると、ほとんどの場合それは自らに特有のものではない。結局「わたし」とは、我々が個人としての「私的可能性を失って、社会の一般的な秩序のなかにじぶんをうまく挿入していくこと」なのである。心理学者のロナルド・レイン曰く「ありえたかもしれないじぶんを棄てていくこと」が即ち、じぶんになることである。彼はこれを「エクスタシーの放棄」と呼ぶ。この場合のエクスタシーは「忘我」、つまり自分でなくなる、他の誰かになる、ということを意味する。それを放棄するのだから、別のものになる可能性を捨て去って、社会的にこうであるべき「じぶん」に自らを同化させるということである。これを行うには、他人の模倣をする、という前提がある。

自己が希薄になると、規則に従って思考、行動することで、みずからを規定しようとする。これが異常な度合いであるとき、過剰な合理主義とよぶ。もうひとつ、じぶん以外のものを明確にすることで、じぶん自身の輪郭をはっきりさせようとすることもある。そのために、我々は意味の境界に固執する。しかし、これもまた曖昧なものだ。「わたしはだれ?」という問いには、「わたしをかたちづくっている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクストに則して検証していくところでしか答えられない(p.49)」。

上のような規則性、排他性とは裏腹に、我々には、じぶんを溶かしてしまいたい、という欲求も存在する。

上述のレイン曰く「自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを、自己に語って聞かせる説話(ストーリー)である」。過剰な合理主義は、他者との関係から十分な自己が配給されなかったことの帰結。逆説的だが、自らに語るストーリーは、それがしっかりしたものであればあるほど、もろく壊れやすい人生をつくる。なぜなら、それが崩れたときに紡ぎ直す必要があるからだ。同一のシナリオにいなければいけない、という強迫観念が、ときに我々を不安に陥れる。じぶんを失い、定義できないものにすることも、ときには必要である。

物語は、共有されなくてはいけない。そしてそれは、共同体の文化に根ざしているもので、他人のものと同じ生地でできている。そう言った意味で他者との関係をとおして「じぶん」は形成される。

他者と精神的に近づいたとき、「じぶん」は強く意識される。それに対し、「してあげる」ことは相手を客体化すること。他者のなかに位置を占めていない不安。「他者」の「他者」としてのじぶん。他者を自分に理解可能なものとしておしこめる。しかし、それはわたしの影にしかすぎない。実際は自らも逆規定されており、そうやって自らのアイデンティティを補強してもらっている。しかし「してあげる」意識はこれを無視してしまう。大切なのは、じぶんは規定できえないものだという意識をもち、相手を規定できないことにいらだたないこと。


この本について

不確かな存在である「じぶん」入門。いくつかの選ばれた研究と、筆者自身の経験より、誰もが抱く「わたしってだれ?」という疑問について考えていく。もちろんそこに答えはないし、著者もそのことを明言しているが、ひとつの分析として非常におもしろいし、平易な語彙をこころがけており、読みやすい。字は大きく、頁数も少ないが、読者に一方的に知識を投げる本ではないので、咀嚼しながら読了するにはそれなりの時間がかかった。一本道の議論ではなく、読み終えた後は雑多な印象が否めないが、そこで出会う小話・例はどれも興味深く、一層の思索へと誘うものばかりである。著者自身が大事にする哲学と日常との係わりがよく考えられている。

わたしはいつも読書をするとき、そこに一片の真実を読みとろうと、そして残りの嘘をなんとかして剥ぎ取ろうとしながら読んでいる。大抵の書物はそこにひとつの真実もないし、むしろそんなものあってたまるか、なのだが、この本については疑いを差し挟む余地がなかった。それはとても危険なことで、この本がわたしの弱みにつけこんだということであり、そんなわたしにはこの本を正当に評価し得ないと思う。よって、以下の考察はこの書物をどうにか批判しようと試みたものである。

この本では「じぶん」を内に探すことの無意味性、他者との係わりが重要である、ということがひとつの主題と言って好いと思う。そのなかで、我々が日々覚える様々な感情を「じぶん探し」に取り込み、説明を加えていく。上述したように、それはとても説得性の高いもので、世の中を「じぶん探し」という断面でスパッと切ってみることができるように思える。それほど「じぶん探し」は大きなテーマなのだろう。むしろ、「なんでも」説明できてしまうようにもみえる…

理論としての不適切性は、その両義性からも読み取れる。我々は自己を確立したく思い、それが不連続だと不安になる。一方、我々は「じぶん」を失いたいという願望も、もちあわせているのだ。これはそういうものだから仕方ない、ということもできるし、そもそもこの両義性は理論の欠陥を表すという解釈もできると思う。

まあ、そんなことはないんだけれども。揺らぎ、両義性こそが現象学のエッセンスであるのだ(この分野については不案内なので間違っていたらご指摘願います)。上の指摘はこじつけだし、まったく的外れなのはわたし自身承知している。わたしがこのことについて今まで考えないでおこうとしていたこと、そうやって揺さぶられることがこの本への評価を曖昧なものにしてしまう。いや、むしろその事実こそがこの本を評価しているということなのかもしれない。いづれにせよ、この本は時を経た後、再び読まなければいけないのは確かである。


10/7/2012改

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