2012年3月28日水曜日

創造の方法学(1979)

高根正昭:社会学者。1931年生まれ、1981年没。学習院大学政治学科卒業。カリフォルニア大学社会学博士。カリフォルニア州立大学助教授、上智大学教授を歴任。「日本の政治エリート 近代化の数量分析(中公新書)」という良書を残しているが(未読)、残念ながら早逝されたため、著書は多くない。


要約


米国における大学教育では、小論文が重視され、主題に関する従来の学説の検討、分析、引用文献の呈示が求められる。さらに進んだら仮説の提出、その検証までも求められるかもしれない。これまでに生産された学術的成果に何かひとつでも付け加えることが重視される。

問題解決のための基本的な要素は、「『原因』と『結果』とを明瞭に定めて、問題の論理を組み立てる方法」のことである。原因と結果の因果関係を、「なぜ」という疑問に答える形で説明すること。命題(proposition)とは、判断を言葉で表したもの。そして、因果関係に関する二つの要素の論理的な関係は、仮説(hypothesis)と呼ぶ。仮説とは、結果となる現象が一定の方向に変化するような、条件に関する立言statementと定義できる。

記述(description)と説明(explanation)とは区別されるべきである。説明の方がより高度な研究。記述は現象を客観的に記録する。そこに「なぜ」にこたえるものではない。説明は、なぜ、という疑問から、結果として扱われる現象と、その原因となるはずの現象とを論理的に関係させる行為である。仮説の複合体をモデルという。現実のいくつかの特徴をぬきとってつくった模型のことである。

まずどの現象を説明しようか考える。そして、それの原因が何かを考える。まず最初に思いつくアイディアを大切にする。これは我々の固有の経験による場合が多いから、独自の見解になっておもしろい仮説を提出できる可能性があるからだ。

われわれがふだん事実(fact)とよぶのは、現実を概念(concept)によってきりとったものである。概念の修正、または新たな概念の創出こそが知的創造において極めて重要。実際には概念を具体化した指標を定めることが必要になってくる。作業定義では仮説、
そして一般的概念では理論となる。

結果は従属変数(dependent variable)、原因は独立変数(independent variable)とふつうよばれる。変数とは、数値をもった概念のこと。従属変数と独立変数の間には、時間的な前後関係がある。二つの変数は共変関係にある。独立変数以外の変数は、ふつう変化のないことが前提とされる。人工的に変化が統制された変数、あるいは変化しないと仮定された変数はパラメター(parameter)と呼ばれる。実験の場合は、実験群(experimental group)と統制群(control group)というふたつのできる限り等質な集団をつくる。

コンピュータによるサーヴェイ・リサーチの章は割愛。多変量解析が説明的である、など。

前章を受けて、質的方法も重要であることを説く。組織的比較例証法(systematic comparative illustration)によって、社会科学的に、質的分析を試みることができる。概念的に変数を操作し、因果関係についての推論を行い、歴史的資料によって、その推論を実証しようとする。引用される実例は、恣意的にならざるを得ない。

参加観察(participant observation)という方法もある。現場で、よい情報提供者と信頼できる関係を築く。事例がひとつということは、変数間の関係が固定で、その数値に変化がないということ。科学的には初歩的な調査法である。逸脱事例の調査は、比較例証と似ている。人類学もそう。



この本について


社会科学をやるなら、まずこれを読みなさいといって教授に薦められた本。1979年の発行から30刷以上を数える、社会科学方法論の日本における古典。買った後にパラパラとしか読んでいなかったので、端から読んでみた。現実をどう切り取って、捉えるか、という社会科学の真髄を解説したもの。かなりガチガチの方法論の記述が多いので、要約が引用ばかりになってしまったのは申し訳ない。

著者自身の留学経験が豊富に盛り込まれており、自慢話にきこえるようなきらいもある。アメリカ絶対主義的な感じもあるかもしれない。が、まあ話をわかりやすくしてるっちゃあしてる。同じ方法論でも留学先の学部で読まされたエヴェラなどと比べて具体例がわかりやすい。ちなみにエヴェラはほんとうにつまらなかった(笑)。日本の学部でも、社会科学的な方法を重視する教授の講義では、方法論に一コマ程割かれていた覚えがあるが、行政学の教授は、ヴェーバーの例など、この本を大いに参考にしているんじゃないかと思う。その教授はキング・コヘイン・ヴァーバも引用していたようだ。政治科学の方法論に限っていえば、私としては有斐閣アルマ「比較政治制度論」の序がわかりやすく、まとまっていたと思う。
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17/10/2012改

2012年3月24日土曜日

首長の暴走 あくね問題の政治学(2011)

平井一臣:1958年生。鹿児島大学法文学部教授。九州大学大学院法学研究科単位取得退学。法学博士。専門は日本政治史、地域政治。著書・論文多数。阿久根問題と地方政治を分析した他著書(未読)がある。



前提


2008年から2011年にかけて鹿児島県阿久根市長を務めた竹原信一氏の市政について、多角的に分析する試み。阿久根市は人口二万強の小さな町であり、これが全国に知れ渡るようになったのは竹原氏による破天荒な政治手法による。

ブログ市長竹原信一の市政 (彼のブログ「住民至上主義)」


小泉構造改革が産み出した地方の疲弊が背景にある(地方交付税交付金の大幅削減など)。竹原は二年半市議として、斎藤市政を批判。12年務めた前市長の後任が一本化できないまま、三つ巴の選挙へ。接戦を制し、市長に。選挙期間中にもブログを更新、「改革派」を自認←市役所人件費・市議の削減、市民サービスの拡充を公約。

落としたい議員ネット投票、市職員給与公開問題、一連の騒動にマスコミは好意的であった。市議会事務局職員人事を自ら行うも、これは市議会議長に任免権があり理由を付さない降格人事も違法である。税金を使っている意識を高めるため、各課に総人件費を記した張り紙をするも、これがすべて剥がされる事件が発生。不信任→失職→出直し選挙→僅差で国交省出身の田中勇一に勝利

組合の追放、張り紙事件の犯人は懲戒解雇処分に。解雇された職員は不当解雇を訴えて裁判に訴えるも、地裁命令に市長は従わず。障害者蔑視(?)のブログ記事事件。医療の進歩で淘汰されるべき人間が生き残っていると指摘。課税に関する住民情報の提出を要求→担当者の拒否には自らの人事権を示唆することで対応。

マスコミ5社を議場から退去させるという事件が起こる。議会は混乱し、マスコミを退場させない議会に市長は激昂、欠席、以後議会を招集せず。それから、立て続けの専決処分を行う。ボーナスの半減、花火規制条例など。専決処分の違法性を指摘した上申書(ほぼ全職員が署名)はシュレッダーにかけられる。こうした自体に国でも懸念が表明される。鹿児島県から助言及び勧告されるも、市長はこれを無視。同じ頃、後にリコール運動の中核を担う「阿久根の将来を考える会」が発足する。

副市長に元愛媛県警仙波敏郎が専決処分で選任。任命の適法性は甚だ疑問。副市長の進言を受け入れるという形で議会を再び開催。通常、議会の同意が必要な副市長人事は否決されるも、それによって人事を事実上承認したと市長に看做される(もう全く意味がわからない)。市長派の議員がたてこもる、議会籠城事件が発生。リコール→出直し市長選→リコール運動中心人物の西平氏に僅差で敗れる。

問題点


劇場型政治→しかし感情的な対立より一部マスコミ排除。自分の意図が思った通りに報道されないことへの憤り。ブログへ映像を無断で添付したことへの抗議に腹を立てて取材拒否、など。ブログを旧メディアが取り上げ、宣伝した、という相乗効果があった。ブログの読者が若年層であることに対し竹原氏の支持者は高齢者が中心。

ラベリングの政治、抽象化された政治、感情の政治。そしてなにより、マスコミが団結して抗わなかったこと。風変わりな市長について報じれば視聴率がとれる、という安直な考えだったんじゃないか?

政治の文法が崩壊しつつある。ジェラシーの政治。要するに世の中の不平等感を煽って人気をとる。二元代表制。権力のチェックは地方自治体の首長では限界がある。だから政治主導は控えるべき。

政治家に限ったことではなく、世論の傾向として新自由主義的心性がある。これが浸透して、改革のためならルールを変えても構わないという空気がある。そしてこれが敵を設定してたたく、ジェラシーの政治へと通じる。自治と民主主義、人権との関係が問われるべき。地方議会を機能させることも大事。「他者や異なった意見を尊重し相互に信頼する態度」に留意しなければならない。地域メディアの重要性。使命感もって、ちゃんと取材に来い、と。



この本について


「何が起こったのか」と「何が問題なのか」と大きく二部にわかれており、前半では主に時系列順で竹原氏の市政を追い、後半ではその地方自治としての問題点を、限られた出典をはさみつつ分析する。ですます調で、非常に読みやすい。前半部は、(おそらく)新聞記事などを元にした、事件、市政の経緯などを記述的に紹介している。阿久根問題入門としてちょうど好い。

現代政治についての記述は、特に批判的な意味合いがこめられた場合、歴史的な文脈、根拠を省いて(意図的にか、単に調べないのか)論じられる場合が多いと思う。そのぶん著者は政治史が専門らしく、批判の際の比較事例も幅が広く、歴史的な文脈に阿久根問題を埋め込んで説明されているので説得力がある。限られた出典というのは、要するに数が少ないということで、一般の読者が興味をもちやすいような文献で、実際に手にとってみるのも悪くないな、というような良書ばかりが選ばれている。

竹原市政全体について、様々な角度で考察するのを目的としている故、政治の議論としては多少パッチィなものを感じた。ただこれも恐らく著者の意図する処で、竹原市政からどのような議論をしたらよいのか、今後の議論に竹原市政から何を学べるのか、というもののとっかかりにすればよい、くらいな考えなのかもしれない。そういうことなら、よい本だと思うし、目的は遂げられているとも思う。

少し気になるのが、前半部で著者が竹原氏の一挙手一投足すべてを批判してしまうような勢いであるという処である。先程のような著者の意図があるならば、それはそれでよいのかもしれないが、如何にも著者が竹原氏を嫌っているようで、理論的な整合性があまり判然しない箇所もある。同じことをやっても、橋下氏に対しては非難が降らないようなのも批判される対象になっているような気もする。同じ政治学者であっても、橋下氏を部分的に支持しながら(東国原氏については知らんが)、竹原氏については政治家として話しにならない、というような判断をする人が多いと思う。

何が竹原氏をここまで嫌われ者にするのか。これは、ひとつひとつの政策の問題ではない。違法な状態をつくりだし、それを意に介さない彼の人間性を疑問視している、というのが本当のところではないか?ポピュリスト的な政治を批判する意見は当然あるだろう。しかし、竹原市政で問題なのは、違法状態が放置されたこと、そして「首長の暴走」を止める術が不足していたこと、これである。

2012年3月14日水曜日

じぶん・この不思議な存在(1996)

鷲田清一 : 哲学者。専門は臨床哲学、倫理学。世の中との関わりを重視する立場。現象学者。京都大学文学部出身、関西大学教授、大阪大学教授、大阪大学総長を経て、現在大谷大学教授。著書多数。


要約

「じぶん」は、考えれば考えるほど不確かな存在である。「じぶん」を探そうとして、自分に固有の特性を探そうとすると、ほとんどの場合それは自らに特有のものではない。結局「わたし」とは、我々が個人としての「私的可能性を失って、社会の一般的な秩序のなかにじぶんをうまく挿入していくこと」なのである。心理学者のロナルド・レイン曰く「ありえたかもしれないじぶんを棄てていくこと」が即ち、じぶんになることである。彼はこれを「エクスタシーの放棄」と呼ぶ。この場合のエクスタシーは「忘我」、つまり自分でなくなる、他の誰かになる、ということを意味する。それを放棄するのだから、別のものになる可能性を捨て去って、社会的にこうであるべき「じぶん」に自らを同化させるということである。これを行うには、他人の模倣をする、という前提がある。

自己が希薄になると、規則に従って思考、行動することで、みずからを規定しようとする。これが異常な度合いであるとき、過剰な合理主義とよぶ。もうひとつ、じぶん以外のものを明確にすることで、じぶん自身の輪郭をはっきりさせようとすることもある。そのために、我々は意味の境界に固執する。しかし、これもまた曖昧なものだ。「わたしはだれ?」という問いには、「わたしをかたちづくっている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクストに則して検証していくところでしか答えられない(p.49)」。

上のような規則性、排他性とは裏腹に、我々には、じぶんを溶かしてしまいたい、という欲求も存在する。

上述のレイン曰く「自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを、自己に語って聞かせる説話(ストーリー)である」。過剰な合理主義は、他者との関係から十分な自己が配給されなかったことの帰結。逆説的だが、自らに語るストーリーは、それがしっかりしたものであればあるほど、もろく壊れやすい人生をつくる。なぜなら、それが崩れたときに紡ぎ直す必要があるからだ。同一のシナリオにいなければいけない、という強迫観念が、ときに我々を不安に陥れる。じぶんを失い、定義できないものにすることも、ときには必要である。

物語は、共有されなくてはいけない。そしてそれは、共同体の文化に根ざしているもので、他人のものと同じ生地でできている。そう言った意味で他者との関係をとおして「じぶん」は形成される。

他者と精神的に近づいたとき、「じぶん」は強く意識される。それに対し、「してあげる」ことは相手を客体化すること。他者のなかに位置を占めていない不安。「他者」の「他者」としてのじぶん。他者を自分に理解可能なものとしておしこめる。しかし、それはわたしの影にしかすぎない。実際は自らも逆規定されており、そうやって自らのアイデンティティを補強してもらっている。しかし「してあげる」意識はこれを無視してしまう。大切なのは、じぶんは規定できえないものだという意識をもち、相手を規定できないことにいらだたないこと。


この本について

不確かな存在である「じぶん」入門。いくつかの選ばれた研究と、筆者自身の経験より、誰もが抱く「わたしってだれ?」という疑問について考えていく。もちろんそこに答えはないし、著者もそのことを明言しているが、ひとつの分析として非常におもしろいし、平易な語彙をこころがけており、読みやすい。字は大きく、頁数も少ないが、読者に一方的に知識を投げる本ではないので、咀嚼しながら読了するにはそれなりの時間がかかった。一本道の議論ではなく、読み終えた後は雑多な印象が否めないが、そこで出会う小話・例はどれも興味深く、一層の思索へと誘うものばかりである。著者自身が大事にする哲学と日常との係わりがよく考えられている。

わたしはいつも読書をするとき、そこに一片の真実を読みとろうと、そして残りの嘘をなんとかして剥ぎ取ろうとしながら読んでいる。大抵の書物はそこにひとつの真実もないし、むしろそんなものあってたまるか、なのだが、この本については疑いを差し挟む余地がなかった。それはとても危険なことで、この本がわたしの弱みにつけこんだということであり、そんなわたしにはこの本を正当に評価し得ないと思う。よって、以下の考察はこの書物をどうにか批判しようと試みたものである。

この本では「じぶん」を内に探すことの無意味性、他者との係わりが重要である、ということがひとつの主題と言って好いと思う。そのなかで、我々が日々覚える様々な感情を「じぶん探し」に取り込み、説明を加えていく。上述したように、それはとても説得性の高いもので、世の中を「じぶん探し」という断面でスパッと切ってみることができるように思える。それほど「じぶん探し」は大きなテーマなのだろう。むしろ、「なんでも」説明できてしまうようにもみえる…

理論としての不適切性は、その両義性からも読み取れる。我々は自己を確立したく思い、それが不連続だと不安になる。一方、我々は「じぶん」を失いたいという願望も、もちあわせているのだ。これはそういうものだから仕方ない、ということもできるし、そもそもこの両義性は理論の欠陥を表すという解釈もできると思う。

まあ、そんなことはないんだけれども。揺らぎ、両義性こそが現象学のエッセンスであるのだ(この分野については不案内なので間違っていたらご指摘願います)。上の指摘はこじつけだし、まったく的外れなのはわたし自身承知している。わたしがこのことについて今まで考えないでおこうとしていたこと、そうやって揺さぶられることがこの本への評価を曖昧なものにしてしまう。いや、むしろその事実こそがこの本を評価しているということなのかもしれない。いづれにせよ、この本は時を経た後、再び読まなければいけないのは確かである。


10/7/2012改