2012年10月31日水曜日

ゼロ年代の想像力(2008)

宇野常寛:1978年生。評論家。立命館大学文学部卒。


まとめ

1980年代以降、相対主義が浸透し、吾々は大きな物語を失った。それにどう対処していくか考えたのが、90年代の想像力であった。碇シンジは、社会的自己実現(エヴァに乗ること)を拒否し、自己像(キャラ)の承認を求めて引きこもる。何かをすれば誰かを傷つけるので、「何もしない」ことを選択する価値観である。碇シンジは、人類補完計画を自らの手で推し進めることで、無條件な承認を得ようとするが、最終的に劇場版ではそれを否定する。ラストシーンにおいて、アスカに拒絶される(「キモチワルイ」)のは、「何もしない」選択は間違っているけれども、他者とのコミュニケーションはやはり痛みを生む、ということを象徴している。

ポスト・エヴァ的に大量に出現した「セカイ系」 ― キミとボクの関係がセカイの危機に直結するようなストーリィ ― は、アスカによる拒絶を嫌い、病的な、往往にしてトラウマを抱えた少女に全承認される筋を辿る。

ゼロ年代の想像力は、これらから一歩進んだものだ。引きこもるのではなく、現実をサヴァイヴすることを選択する。大きな物語が否定され、現実が虚無であることを受け入れた上で、敢えて、決断する。「決断主義」こそがゼロ年代の想像力をよく現している。

ポストモダンが深く進行していない状況では、ドラゴンボール的な数値化された序列の階段を登っていくのが正義であり、成長物語である。90年代以降、大きな物語が失われ、データベースから小さな物語を読み込む吾々は、そういった絶対的な強者の存在を肯定できない。すなわち、「ジョジョの奇妙な冒険」的な、お互いの弱点を、自らの一芸で突き合う、カードゲーム的な状況になる。

そこで、前出のサヴァイヴ感が、「DEATH NOTE」における夜神月的な決断主義を要請する。大きな価値などない、物語を失った吾々だが、引きこもってはおられず、サヴァイヴし、無価値の中から、選びとる決断をしなければならないのだ。ネットの登場によって、吾々は自分が好む小さな物語をデータベースから読み込み、住み分けることが可能になった。しかし、住み分けられるからこそ、敵味方をつくって対立するのである。「バトルロワイヤル」の舞台である学校に象徴されるように、現実において、小さい物語同士は対立する。虚無主義を織り込み済みで、現実をどうサヴァイヴしていくのか。


この本について

おもしろかった。「データベース消費」など、東浩紀の議論を今一度まとめて、2008年版に更新した作品となっている。アニメ、ドラマ、小説などから現代の状況を捉え、吾々がいま、どう生きるべきか問う。

誰だったか、こじつけの本だ、と本書を評していたが、それも否定はしない。つっこもうと思ったらいくらでもできる。だが、これだけまとまった議論を展開できるのには感服するしかない。仮面ライダーをみたくたった。

結局、著者の狙いは、サブカルと呼ばれている文化を、消費する価値も、議論する価値もないと考えている人間に、「どうだ、あんたらが馬鹿にしてるものは、これだけ奥が深いんだぞ」というだけのものなのかもしれない。

2012年10月15日月曜日

最終戦争論(1942)

石原莞爾:1889年生、1949年没。大日本帝國軍人。板垣征四郎とともに、関東軍の参謀として、満州事変を首謀するなど活躍。後に失脚。軍事思想家としても知られる。

要約

戦争には二種類あり、それらは持久戦争と決戦戦争である。前者は政治的なやりとりと傭兵、後者は武力戦及び国民皆兵を特徴とする。歴史の循環として、今迄持久戦争と決戦戦争は交互に現れてきた。西洋においては、決戦(古代ギリシア・ローマ)→持久(帝政ローマ中期から末期)→基督教の支配する暗黒時代(中世)→持久(ルネサンス以降)→決戦(仏国革命以降)→持久(第一次大戦)。これらの変化は、兵器の技術的進化や社会の変化が因となっている。では、いま飛ぶ鳥を落とす勢いのナチスドイツは、決戦戦争の時代への突入を意味するかというと、そうではない。

作戦の変化にともなって、戦争をする単位も、大隊、中隊、小隊、分隊さらには個人と小さくなってきている。個人単位の全国民同士が、次の決戦戦争でぶつかりあう。さらに空軍の導入によって戦場は三次元に広がる。その次は無いのである。つまり、次の決戦戦争で戦争は終わり、世界は統一を迎える。いままでのサイクルが1000,300,125年ときているから、その次は数十年後ということが推測できる。

上の予言は日蓮の教えから導くことも可能である。仏教では時代を正法・像法・末法の三つにわけ、それぞれ千年、千年、万年の計一万二千年。正法、像法及び末法のはじめの五百年の、計二千五百年については、大集経という形で釈迦の予言が伝わっている。それが終わった頃、日蓮聖人が現れ、以降の予言をした。「日本を中心として世界に未曽有の大戦争が必ず起る」というのだ。しかし最近、日蓮の予言が全部解釈され終わったところで、教義に疑義が挟まれた。仏滅の年代測定が違っていて、日蓮は実は像法の人だったという。仏滅が二千四百数十年前であるという最近の説にたてば、日蓮のいう未曾有の大戦争は、数十年後に現れ、不思議と上の理論が導いた結果に整合する。


この本について

本書は莞爾が1940年5月に行った講演を筆記したものである。要旨は上に書いた通りで、数十年後の最終戦争と、後の世界統一を予言している。

おもしろい。軍人だけあって、兵器の技術的な側面や、実務の観点から話ができるので、学者が話すとおもしろくなさそうなものでも、飽きずに読める。

おそらく石原莞爾が高く評価されているのは、日米での最終戦争を予言し、空軍の活躍を予想したなど、先見の明があったと認められているからであろう。莞爾を此処まで偉くしたのは歴史の偶然かもしれない。先見の明は、ともすればペテン師になる。参謀・思想家として非常に優秀であったのは事実だろうが、合理主義的実務家である甘粕正彦が「明後日はあるが、明日がない」と評したというのも、首肯ける。

莞爾は理論家だということを聞く。私はそうは思わない。莞爾は思想家であって、理論家ではない。持久戦争・決戦戦争では、原因が異なる変化について、年数でざっくり割っているのを、私は理論だと思わない。日蓮のくだりは、矛盾も甚だしい。ただ、頭がよかったのは確かなようで、自らの「理論」の非合理な部分は、「仏の神通力」などといって意識的にパトスで包み込んでいる。これが思想家たる所以である。




最終戦争論(青空文庫)