2013年1月2日水曜日

官僚制批判の論理と心理(長めの要約)

より簡易なまとめ及びコメントはこちら

ロマン主義と官僚制

新自由主義の「小さな政府」論が、実際は官僚制批判に立脚していることからして、近年の新自由主義批判すなわち社会的連帯や平等に関する考察は、的外れであるように思える。そこで注目すべきはもちろん官僚制であって、これを研究せねばならない。

「官僚制」すなわちbureaucracyという言葉の成立は、他の「〜クラシー」と比べて時期が遅れる。官僚制は常備軍とともに、絶対王政下において出現したのだ。官僚制の成立前提として、その組織の継続可能性が高いことがあげられる。なぜなら、ヒエラルキーの末端に甘んずるには、今後上昇する蓋然性が必要だからだ*1。つまり、官僚制が親和的なのは、人々の自由が制限され、秩序の永続性がある程度保障されたリヴァイアサン的国家*2なのである。

官僚制的な機構は、その言葉の成立以前から存在した。それが「オリエント」のもの*3として西洋世界では蔑まれてきたのが、官僚制の積極的な取り上げられ方を妨げていたのかもしれない。西洋世界においては、オイコス(家庭秩序=経済)とポリス(政治秩序)の二元論が古くから存在し、命令を遂行するのみの官僚機構は明らかにオイコス的なものであるから、人文科学では取り扱われなかった。官僚制の起源として、家父長的な社会・家産官僚制があり、その非合理性というのは確実に受け継がれている。家産官僚制と近代官僚制は相対的な違いなのである。

官僚制はそれに対する批判とともに出現したが、18世紀終わりから、これにロマン主義的な批判が合流した。ロマン主義とは、啓蒙思想への対抗だった。功利的な目的のため*4に統制されることへの反発。強力な軍隊や官僚機構をもつプロイセン国家への反発。反官僚の情念である。日本における90年代の不祥事から噴出する批判も、この情念に後押しされた。官僚制批判は、官僚制に内在するものなのだ。よって、むしろそれ迄なぜ批判が抑えられてきたかが問題となる。

デモクラシーと官僚制

ウェーバー*5が官僚制研究の嚆矢である、とよくいわれるが、ヘーゲルの法哲学においてすでに多くの指摘がなされている。ミヘルズという人物が、組織の肥大化と寡頭支配・官僚制をリンクさせ、これをデモクラシーと対置して批判した。ウェーバーはここから、この二項対立を図式化し、官僚支配によるパターナリスティックな性質による人民の政治的未成熟*6を回避するため、政治主導としてデモクラシーを支えることの意味を強調する。

トクヴィルによると、不平等を前提とする社会で格差は問題にならない。しかし、民主化が進むにつれ、格差への憎悪は強まり、それを是正するために政治が肥大化する。デモクラシーは官僚制を呼び寄せて、それと対立し、それを批判するのである。

J.S.ミルは功利主義に質的観点を導入した*7。そして、「個性の尊重」を大衆の同質化圧力に対して強調したのである。「自由論」において、彼は官僚制が

決まりきった仕事をだらだらと続けていくか…<中略>…組織の指導者の誰かが粗雑な議論にほれこんで、まともに検討もしないまま飛びつくか (本書p.52より。原典は山岡洋一訳「自由論」J.S.ミル p.247)

という性質をもつ傾向があることを指摘している。そして、自由と行政は対立するが、行政なしでは自由が存在し得ない、というジンメルの「生と形式」と似た構造の議論を展開する。

正当性の危機から新自由主義へ

宗教的な内乱を鎮めるためには暴力が必要で、近代国家はその唯一の担い手として勃興した。しかし、ホッブス的な状況*8でなく、権力によって治安が確保された場合においては、その「暴力」は正当性を疑われることになる。

ウェーバーの有名な分類による正当性の三つの理念型:伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配*9の中では、現在、合法的支配が一般的になっている。その正当性は、形式主義=官僚制が含む中立性原則への確信に基づく。しかし、官僚制に中立を見出すのが困難なのは、現代日本の官僚制を参照すれば火をみるよりも明らかであり、ウェーバー自身が幾度も言及している形式合理性と実質合理性の対立(すなわち後者が繰り返し復活してきたこと)の観点*10からして、「官僚の正当性」には疑義を差し挟む余地がある。

ハーバーマスは「公正な交換」を前提とする自由主義的資本主義と対比して、国家が市場へ介入することを許す「組織された資本主義(以下、後期資本主義)」に注目した。自由主義的資本主義においては、国家は市場に余計なことをしない限りは、正当性を問われることはない。一方、後期資本主義においては、官僚制が市場に介入することで、資本主義は「政治化」する。ここに二つの危機が生まれる。ひとつは「合理性の危機」すなわち経済システムからの要請に対して官僚制が一貫した態度を貫けなくなるという危機。「予測可能性」や「計算可能性」によって中立性を維持してきた官僚制が、経済の政治化によって恣意化するのである。もうひとつは「正当化の危機」すなわち後期資本主義で経済活動に伴う諸問題の責任をおしつけられることになった官僚制は、介入の消極性または逆に積極性によって非難され、大衆の忠誠を失うのである。

この危機を避けるには、2つ方法があり、ひとつは自律的な「システム」の領域を確保すること。そして経済成長というパフォーマンスを持続的に発揮すること。前者はドイツにおけるテクノクラート批判につながり、後者は高度経済成長とあいまって日本で官僚礼賛が行われたことに通ずる。

バブル崩壊によって正当性の危機が露見し、日本の官僚は一気に批判の対象となり、テクノクラートのイデオロギー、官僚による政治のとりこみなどが非難される。パフォーマンスの低下は、「上からの近代化」というイデオロギーの喪失によることも確かだろう。

新自由主義はもともとサッチャー・レーガン時代からのイデオロギーである。日本において本格的に導入されたのは橋本龍太郎以降であり、これは小さな政府を標榜する新自由主義と上のハーバーマスの議論が重なる部分があったからである。小泉純一郎によって「ぶっこわ」された自民党以降、より多くのデモクラシーを求める声と、小さな政府を唱える声はともに官僚制批判へと向かう

この流れは新自由主義に有利な形で進む。しかし、官僚制の正当性を疑い、より多くのデモクラシーを求めることは正しいとしても、専門家や官僚の有していた正当性を誰が負うのか、という問題からは逃れられない。様々な意見は噴出するものの、決定ができなくなるのである。すると、政治から決定権をとりあげるというまたしても新自由主義に有利な方向に論が進むことになる。

「鉄の檻」以降のカリスマ

ウェーバーにおいては、脱魔術化*11 は貫徹されず、再魔術化がつきまとう。これはいいかえると啓蒙とロマン主義との対立である。恣意的なもの・非合理的なものを社会から取り除くということは、ひょっとすると自由を失うことなのではないか?

官僚制の「鉄の檻」が強まるにつれ、これに対抗し、非合理に振る舞うカリスマが待望される。日本において官僚制が封建的割拠の性質をもつということは繰り返し批判されてきた。そうした中で、責任を担う中心が欠如しているという認識は古くから存在してきた。

バウマンはこれらの議論の前提とされてきた「鉄の檻」がグローバル化のなかで既に消滅しており、かわりに「リキッド・モダニティ」の時代になったと論ずる。こうした状況で一連の新自由主義的な政策が導入されていく。しかし、これはフーコーにいわせると権力性が弱くなったのではなく、新たな「統治性」なのである。あたらしい社会理論と、カリスマを待望する一般的な認識は大きく食い違っている。

ふつう官僚制化は否定的な論調で語られるが、それが政治的な決定の幅を狭めるのに貢献している面があるのは否定できない。脱官僚は政治が新たな決断と説明責任を担うことを意味するのだ。決定できないと「正当性の危機」が顕在化する。

一貫性の乏しい様々な公行政について説明責任を負うよりも、それらを全廃する形で戦うことは一貫的に可能である。よって、強いリーダーシップを求める政治家は新自由主義へ引き寄せられる。しかし、そもそも政治家は信念・一貫性をもつべきなのだろうか?

トクヴィルの場合、ウェーバーのカリスマ対官僚制にあたるのは、中央集権対アソシエーションである。社会関係資本といっても差し支えない。

読み直されるウェーバーの官僚制論

新自由主義が官僚制批判を絡めとっている、という議論を行ったが、グローバル化の圧力が新自由主義を推し進めているという面も、もちろんある。しかし、グローバル化を不可避の一枚岩の流れとして描くのは如何なものか。

たとえばウェーバーは近代化、合理化を必然として書くことを躊躇した。そこで、合理化を分解し、複数の諸合理性として議論したのである。そうすることで近代化が内部に孕む亀裂に目を向けるのである。こうして普遍的とみられるものを相対化する。


*1 ヒエラルキー
官僚制の典型として、軍隊のようなトップダウンの組織を思い描いてほしい。「官僚制」と「官僚」は、ひとまず別モノと考えよう。いつまでも二等兵でいたいと思う者は(恐らく?)いないだろう。上の階級へ昇級する可能性があるから踏ん張るのである。
*2 リヴァイアサン的国家
もちろんホッブズへの言及である。
*3 オリエント
古代エジプト王朝や、ペルシア帝国などをイメージするとわかりやすい。
*4 功利主義
ベンサムが、「何をもって正義と為すか」の原則を求めた上で辿り着いた結論である。ひとことでいえば「最大多数の最大幸福」を目標とする。
*5 マックス・ヴェーバー
エミール・デュルケムと並んで、社会科学の創設者的存在。もともとは経済史学者であったが、その研究の領域を多方面に広げていった。
*6 未成熟な国民
官僚が「未成熟な国民」を前提として、パターナリスティックな政治・行政を進めると、国民は一層未成熟になってしまう。この悪循環を政治主導によって断ち切る必要をウェーバーは説いた。
*7 J.S.ミルの功利主義
ベンサムの功利主義理論は、非常に簡素なものであり、定量的な要因を主な考慮対象としていた。ミルはこれに定性的な要因を加味した。
*8 ホッブズ的な状況
ホッブズは「人は人に対して狼である(Homo homini lupus est)」というように、ともすれば互いに襲い合うような人間本質を前提としていた。
*9 伝統的支配・カリスマ的支配・合法的支配
「伝統的支配」は嘗て一般的であった血統による王朝の支配、「カリスマ的支配」はカストロ、ナポレオンやヒトラー、「合法的支配」は民主的な手続きを重要視する現在の日本を、イメージするとよい。
*10 実質合理性・形式合理性
「ある特定の価値観点を設定し,その達成の度合をさすのが実質合理性概念であるのに対し,特定の価値や内容とは全く無関係に行為や思考の経過が技術的に正確に計算される程度を意味するのが形式合理性である。」(有斐閣「新社会学事典」)ウェーバーは歴史過程として、実質合理性→形式合理性という流れを議論することがある。「悪法も法」とするのが形式合理性で、法以外の実質的価値にどれだけ資するかを眼目にして法律を運用するのが実質合理性である。
*11 脱魔術化
非合理、宗教的なものが淘汰されていく過程。近代化は基本的に脱魔術化の流れであると考えることができる。


3/1/2013改

2012年12月4日火曜日

独立国家のつくりかた(2012)


坂口恭平:建築家。2001年早稲田大学工学部建築学科卒。


 路上生活者は、その日常の中で、独自の価値観を構築している。本を読むには図書館へ行く。水を飲むには公園へいけば良い。都会では、食料調達にも事欠かない。それはもはや、価値観というより、我々と全く異なった『レイヤー』に生きているといえるのではないか。そもそも、家賃というものが何故必要なのだろうか?土地に何故お金を払うのか?生存権を謳った憲法は本当にそれを発揮しているといえるのか?そもそも、色々おかしいんじゃないか?—人間として、その根源的な問いから、作者の旅が始まる。

 プライベートとパブリックとは明確に区別されるのではなく、部分的に重なっている、すなわち『レイヤー』として3次元的に捉えることが出来るのではないか、といった話など。既存の価値観を否定して、全く新しい形で社会をとらえる試行が綴られている。先程の『レイヤー』論は、私に次のプレゼンを想起させた。
http://www.ted.com/talks/lang/ja/jennifer_pahlka_coding_a_better_government.html
法的な意味での公的機関への期待が薄れ、実際その効力も希薄化する中、新たなパブリックとしての、いわゆる『賢い群衆』の萌芽に興奮を覚える。これについては、後日、リンダ・クラットン『WORK SHIFT』のレビューでもまた書きたいと思う。

 著者は3次元的な思考スキームを多用していて(彼の本業は建築家だ)、パブリック論という抽象的な議題に対して、素人でも容易に揮える武器を与えてくれる。自分の思考体系に飽きてしまった読者にとっても、上質な刺激になるだろう。

 補足だが、著者は絵も描く。彼のドローイングの中でも、特に、男性の頭部が都市化して3次元的に無秩序に広がっているモチーフは、人間の生命力と無限の思考を最もシンプルな形で表現しているといえる。私はもの凄く好きである。


 最後に、この本に出てくる『態度経済』というイデオロギーが私は本当に好きだ。そして、知らず知らずのうちにこれの上に生きてきたようだ。『態度経済』って何なの、そう少しでも思った貴方、実際にこの本を手に取られることを切に願う。

2012年12月2日日曜日

自分の中に毒を持て(1993)

著者:岡本太郎−芸術家


 「道で仏に会えば、仏を殺せ」−よく解らないけれどもなんだか凄みのあるこの言葉に、僕は惹かれた。生きるということは、自分を殺すことらしい。

 自己啓発本を超えた自己『爆発』本である。よく『魂を踊らせろ』というフレーズが出てきて、僕はそれを感覚的にわかったつもりで居た。左右の側面をぶち抜いて、直線に飛んで貫いて行くことだと思っていた。しかしそれは違うらしい。彼に言わせれば、それはそれで甘えた考えだと言う。解らなくもないのだ。しかしそこで、その甘えた自分を殺す、そこで血を吐いて、ようやく魂を踊らすことが出来るのだという。そうだろう、その通りだろうと今なら解るのだ。生きることは辛いことだ。

 加えて、彼は何か創造をすることが、人生を実りあるものにすると言っている。消費の空しさは、僕も皆も本当はよく知っている。もう完成度は気にしない。少なくともしばらくは、常に生み続けようと思う。自分と愛する人の人生に、色を付けよう。

 混沌と苦悩を経て、いつか大きく羽化したい人に、是非読んでほしい一冊。

2012年10月31日水曜日

ゼロ年代の想像力(2008)

宇野常寛:1978年生。評論家。立命館大学文学部卒。


まとめ

1980年代以降、相対主義が浸透し、吾々は大きな物語を失った。それにどう対処していくか考えたのが、90年代の想像力であった。碇シンジは、社会的自己実現(エヴァに乗ること)を拒否し、自己像(キャラ)の承認を求めて引きこもる。何かをすれば誰かを傷つけるので、「何もしない」ことを選択する価値観である。碇シンジは、人類補完計画を自らの手で推し進めることで、無條件な承認を得ようとするが、最終的に劇場版ではそれを否定する。ラストシーンにおいて、アスカに拒絶される(「キモチワルイ」)のは、「何もしない」選択は間違っているけれども、他者とのコミュニケーションはやはり痛みを生む、ということを象徴している。

ポスト・エヴァ的に大量に出現した「セカイ系」 ― キミとボクの関係がセカイの危機に直結するようなストーリィ ― は、アスカによる拒絶を嫌い、病的な、往往にしてトラウマを抱えた少女に全承認される筋を辿る。

ゼロ年代の想像力は、これらから一歩進んだものだ。引きこもるのではなく、現実をサヴァイヴすることを選択する。大きな物語が否定され、現実が虚無であることを受け入れた上で、敢えて、決断する。「決断主義」こそがゼロ年代の想像力をよく現している。

ポストモダンが深く進行していない状況では、ドラゴンボール的な数値化された序列の階段を登っていくのが正義であり、成長物語である。90年代以降、大きな物語が失われ、データベースから小さな物語を読み込む吾々は、そういった絶対的な強者の存在を肯定できない。すなわち、「ジョジョの奇妙な冒険」的な、お互いの弱点を、自らの一芸で突き合う、カードゲーム的な状況になる。

そこで、前出のサヴァイヴ感が、「DEATH NOTE」における夜神月的な決断主義を要請する。大きな価値などない、物語を失った吾々だが、引きこもってはおられず、サヴァイヴし、無価値の中から、選びとる決断をしなければならないのだ。ネットの登場によって、吾々は自分が好む小さな物語をデータベースから読み込み、住み分けることが可能になった。しかし、住み分けられるからこそ、敵味方をつくって対立するのである。「バトルロワイヤル」の舞台である学校に象徴されるように、現実において、小さい物語同士は対立する。虚無主義を織り込み済みで、現実をどうサヴァイヴしていくのか。


この本について

おもしろかった。「データベース消費」など、東浩紀の議論を今一度まとめて、2008年版に更新した作品となっている。アニメ、ドラマ、小説などから現代の状況を捉え、吾々がいま、どう生きるべきか問う。

誰だったか、こじつけの本だ、と本書を評していたが、それも否定はしない。つっこもうと思ったらいくらでもできる。だが、これだけまとまった議論を展開できるのには感服するしかない。仮面ライダーをみたくたった。

結局、著者の狙いは、サブカルと呼ばれている文化を、消費する価値も、議論する価値もないと考えている人間に、「どうだ、あんたらが馬鹿にしてるものは、これだけ奥が深いんだぞ」というだけのものなのかもしれない。

2012年10月15日月曜日

最終戦争論(1942)

石原莞爾:1889年生、1949年没。大日本帝國軍人。板垣征四郎とともに、関東軍の参謀として、満州事変を首謀するなど活躍。後に失脚。軍事思想家としても知られる。

要約

戦争には二種類あり、それらは持久戦争と決戦戦争である。前者は政治的なやりとりと傭兵、後者は武力戦及び国民皆兵を特徴とする。歴史の循環として、今迄持久戦争と決戦戦争は交互に現れてきた。西洋においては、決戦(古代ギリシア・ローマ)→持久(帝政ローマ中期から末期)→基督教の支配する暗黒時代(中世)→持久(ルネサンス以降)→決戦(仏国革命以降)→持久(第一次大戦)。これらの変化は、兵器の技術的進化や社会の変化が因となっている。では、いま飛ぶ鳥を落とす勢いのナチスドイツは、決戦戦争の時代への突入を意味するかというと、そうではない。

作戦の変化にともなって、戦争をする単位も、大隊、中隊、小隊、分隊さらには個人と小さくなってきている。個人単位の全国民同士が、次の決戦戦争でぶつかりあう。さらに空軍の導入によって戦場は三次元に広がる。その次は無いのである。つまり、次の決戦戦争で戦争は終わり、世界は統一を迎える。いままでのサイクルが1000,300,125年ときているから、その次は数十年後ということが推測できる。

上の予言は日蓮の教えから導くことも可能である。仏教では時代を正法・像法・末法の三つにわけ、それぞれ千年、千年、万年の計一万二千年。正法、像法及び末法のはじめの五百年の、計二千五百年については、大集経という形で釈迦の予言が伝わっている。それが終わった頃、日蓮聖人が現れ、以降の予言をした。「日本を中心として世界に未曽有の大戦争が必ず起る」というのだ。しかし最近、日蓮の予言が全部解釈され終わったところで、教義に疑義が挟まれた。仏滅の年代測定が違っていて、日蓮は実は像法の人だったという。仏滅が二千四百数十年前であるという最近の説にたてば、日蓮のいう未曾有の大戦争は、数十年後に現れ、不思議と上の理論が導いた結果に整合する。


この本について

本書は莞爾が1940年5月に行った講演を筆記したものである。要旨は上に書いた通りで、数十年後の最終戦争と、後の世界統一を予言している。

おもしろい。軍人だけあって、兵器の技術的な側面や、実務の観点から話ができるので、学者が話すとおもしろくなさそうなものでも、飽きずに読める。

おそらく石原莞爾が高く評価されているのは、日米での最終戦争を予言し、空軍の活躍を予想したなど、先見の明があったと認められているからであろう。莞爾を此処まで偉くしたのは歴史の偶然かもしれない。先見の明は、ともすればペテン師になる。参謀・思想家として非常に優秀であったのは事実だろうが、合理主義的実務家である甘粕正彦が「明後日はあるが、明日がない」と評したというのも、首肯ける。

莞爾は理論家だということを聞く。私はそうは思わない。莞爾は思想家であって、理論家ではない。持久戦争・決戦戦争では、原因が異なる変化について、年数でざっくり割っているのを、私は理論だと思わない。日蓮のくだりは、矛盾も甚だしい。ただ、頭がよかったのは確かなようで、自らの「理論」の非合理な部分は、「仏の神通力」などといって意識的にパトスで包み込んでいる。これが思想家たる所以である。




最終戦争論(青空文庫)

2012年9月24日月曜日

The Good Lobbyist's Guide (2003)

Annabel Young: ニュージーランドの政治家。1997年から2002年まで国民党の国会議員。

この本について

全く脈絡も何もないが、おもしろそうなので手にとってみた。(ニュージーランドの)ロビイストのための手引書である。実用書なので要約は省く。

ロビイングの極意とは、一言でいうと、議員との共通の利益を見つけ出し、それを売り込むことだ。選挙区制が1996年に変革されてからロビイングの仕方も変わり、それまでの小選挙区制では大臣相手にするものだったのが、比例代表との併用制になったので議員へのロビイングも有効になった。本書では平議員へのロビイングを中心に解説されている。

ニュージーランドでは酒類業界(または其の反対勢力)がもっとも大きなロビイング集団らしい。小選挙区制では大政党の党議拘束が厳しく、平議員が自らの裁量で投票できるのはドラッグ、性、死刑制度くらいなもので、これらがロビイングの主な領域だった。比例代表を一部導入したことで、連立政府が成立する可能性が高まり、複数与党が互の腹を読み合う機会が増えたため、ロビイングの重要性と有效性が高まったのだ。

本書では議員のことを「無能」呼ばわりしないこと(はじめから喧嘩腰のロビイングは成功しない)、議事堂の部屋を借りて議員と面会するとき、代金は全てロビイスト側につけられること、その他、議員の習性、かれらが何を考えているかなどの記述が続く。

私は国内のロビイング活動についての知識は全くないが、この本を読んでいてなにかしっくりこないことがあった。気づいてみれば、それはニュージーランドの国家としての規模が圧倒的に小さいからなのだ。一院制で議席は120ほど。全人口は400万強(!)。小さな国の、ロビイングというあまり注目を浴びない話題の、本。おもしろかったが、一体誰が読むのだろう。

2012年9月10日月曜日

甘粕正彦ー乱心の曠野(2010)

要約


甘粕正彦は陸軍幼年学校、陸軍士官学校を出て、軍人の道を歩み始めた。しかし、落馬事故が原因となり、歩兵から憲兵に転科せざるを得なかった。憲兵とは治安警察のことである。甘粕が大尉になって、憲兵分隊長を勤めていたときに関東大震災が起こる。

混乱に乗じてアナキストが政府転覆を狙っていると考えた憲兵隊は、大物アナキスト大杉栄を連行し、同行していた内妻伊藤野枝と大杉の甥橘宗一6歳とともに殺害し、古井戸に投げ捨てた。大杉事件である。事件は新聞によって明るみに出、隠しきれなくなった憲兵隊は甘粕を差し出した。甘粕は被疑者として軍法会議にかけられる。甘粕は単独犯行を主張し、裁判は事実関係が有耶無耶のうちに終わる。10年の刑期を言い渡された甘粕は千葉刑務所に収監される。

恩赦や、模範囚としての働きがあり、3年弱で刑務所をでた甘粕は、収監前に婚約を結んでいたミネと婚姻し、夫婦で仏国へ渡る。費用は陸軍からでていたようだ。出所以降、至る所で陸軍が甘粕の手助けをするのは、憲兵が組織ぐるみで行った犯行を全て甘粕一人に被せた口止め料だったのかもしれない。

新婚の仏国滞在は甘粕にとって鬱屈したものであって、結局なにもできずじまいだったようだ。1930年に帰国後、甘粕はすぐに満州に渡る。当時、刑期を経験したものや、社会のはみ出し者は多く新天地を求めて満州へ行った。渡満後数年の甘粕のことはあまりよくわかっていない。そこで甘粕は陸軍絡みのパイプを頼りに、関東軍と伴に謀略工作に従事するようになる。

1931年の満州事変以降、奉天で日本大使館に爆弾を投げ込み、元清朝皇帝愛新覚羅溥儀を連行するなど、満州国の建国に貢献した。民政部警務司長に就任し、その後宮内府諮議となる。大東公司を設立し、苦力(クーリー・中国人労働者)の満州国への入国を管理する傍ら、入国料の徴収から莫大な資金を手にし、政治工作や謀略に役立てていたようだ。満州の昼は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配するといわれるほどの実力者になった。1938年には訪欧使節団副団長として欧州を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラー、フランコらと対談した。

1939年、満洲映画協会(満映)理事長に就任、関東軍との癒着で赤字体質だった満映を立て直す。甘粕は当時でも大杉殺しで知られており、その極度の合理主義や一見傲慢にみえるその態度などからはじめは警戒されていたが、極度に低かった中国人の賃金を底上げし、プロパガンダ映画の否定、思想の左右を問わず役立つ人材を登用する姿勢などから、次第に支持を獲得していった。満映の従業員は多く東映の設立に関わり、戦後日本映画の基礎をつくった。

熱狂的な天皇信奉者であった甘粕は、戦争に負けたら自死すると決めていた。玉音放送の後に甘粕は全従業員を集め、自刎の志を述べ、従業員のこれまでの働きを労い、形見の品々を一人ひとりに手渡した。甘粕は自殺に向けて、満州興業銀行の総裁に電話し、渋る総裁を恫喝して従業員の退職金の引き出しと、満映の当分の運転資金の融資を約束させた。

満映社員は理事長が自殺しないように寝ずに見張り、身の回りから刀やピストルを奪うなどしていたのだが、甘粕は遺言状とともに満州興業銀行の総裁宛に「二百万円貸して下さい。貸さないと死んでから化けて出ます」と書き残し、隠し持っていた青酸カリを服毒して死んだ。



この本について


甘粕大尉の伝記。伝記は往々にしてフィクション的な要素が強く、歴史的な叙述は退屈になってしまう。著者はそのバランスを考えて、できるだけ甘粕の人間性や味わい深いエピソードなどを細かく叙述しつつも、資料や証言に基づいた事実だけを伝えるように努めている。手法としておもしろいし、最後まで全く飽きずにぐいぐい引きこまれながら読めた。著者が自ら行った数多くのインタビューから、人間としての甘粕がいきいきと伝わってくる。

上のように年表形式でまとめてしまうと、甘粕は結局なにをやった人で、なぜ一冊の本にとりあげられるものかわからない。私は映画「ラスト・エンペラー」をみて、満州国の舞踏会でひとり無表情で参加者に撮影機を向ける甘粕という人物に興味をもったから、この本を手にとった。あの映画で坂本龍一が演じる甘粕は、満州国の陰の実力者であり、狂信的天皇崇拝者、感情をもたない冷徹な合理主義者として描かれている。

甘粕は、大杉事件の首謀者、満州国の謀略家、満映の理事長と三つの顔をもっている。大杉事件については、自ら手を下したわけではないらしい。少なくとも子どもはやってないようだ。謀略家としては、石原莞爾、板垣征四郎などと交流し、関東軍ができなかった汚い仕事を引き受けていたらしい。満映については、甘粕は戦後の日本映画界に少なくない影響をもたらしたといえるかもしれない。

甘粕正彦は満州の可能性を愚直に信じ、その発展に寄与しようとした人物であった。私はこれを機に太平洋戦争や満州のことを調べていて、満州とはなんだったのかなあ、と考えている。