2012年7月25日水曜日

二十世紀の政治思想(1996)

小野紀明:京都大学法学部の名物教授。専門は西洋政治思想史。特にハイデガー、ニーチェなどを中心に研究している。

古代ギリシア


ロマン主義運動においては、ホメロス時代に理想、「起源」をもとめることが多かった。それは、「そこで疎外された人間関係を知らない神聖なそれが見出されると考えられたからであった」(p.1)。こうした透明なコミュニケーションが成立していたのは、そこに「人間の作為を超えた普遍的で必然的な秩序」すなわち 宇宙コスモス の秩序、又は後に 自然ピュシス と呼ばれるようになったものである。ここではそれらを「 客観的秩序オンティックロゴス 」と呼ぶ。それは物質的世界の秩序であると同時に道徳的秩序でもある。

ポリスはphysisの秩序を所与のものとして、それを自覚化した法秩序に基づく共同体であった。その成立はアルカイック期に「主観性・内面性、つまり自己意識の獲得とそれに伴う他者の出現によって迎えた共同体の危機を、『自然』という自明な秩序の確認と 市民politēs という公共性の意識の形成によって克服しようとする企て」(p.2)であった。

ここで正義とは、即ち客観的秩序を現れさせることであった。自分の役割が自分に求めることを行う、そしてそれを行うにおいて優れていることが、すなわち善いことなのだ。

エウリピデスまで時代が下ると、「『市民的凡用性』に発言の場が与えられ」(p.5)、かれらは道徳的に堕落する。それは則ち「 存在to on 」と「 現われdokein 」が乖離してしまったことを意味する。そうして「自己を現れさせる市民が消滅」すれば「『自然』と『法』の一致という信念も動揺せざるをえない」(p.5)。

オレステイア三部作やオイディプス王には、「現れ」への根本的不信が底流している。「『存在』と『現われ』の乖離は、この『現われ』の世界を統べる客観的な秩序(logos)への不信を意味し、それはさらに言葉(logos)への不信を惹き起こす」(p.7)。

此処においてプラトンは、「存在」と「現われ」を峻別する二分法を打ちたて、以後西洋世界を二千年もの間支配することになる「真理」による政治が開始されるのだ。

ニーチェ


ニーチェが云う神の死は、すなわち形而上学的信仰の放棄である。それが意味するのは、「超感性的な世界、諸理念、神、道徳律、理性の権威、進歩、最大多数の者どもの幸福、文化、文明が、それらの立て直す力を喪失して虚ろになるという事実」(ハイデガーの孫引き p.11)である。

「『背後世界』の廃棄は、ルサンチマンにとらわれ虚栄心に爛れた『 自我イッヒ』の放棄に直結する」(p.11)。 自我は、理性などそれを形而上学的に支えるものがなければ成立し得ないからだ。

初期のニーチェにおいては、現われは「美的 仮象シャイン」として提示される。それは乃ち、「自他未分離な混沌とした生命力に他ならないディオニュソス的なものが、アポロン的知性によって秩序づけられ形式を付与されることを通して現われる姿である」(p.13)。ロマン主義の影響が色濃い当時において、個人主義・合理主義の批判を美的な現われの評価という観点から行なっている点に既に形而上学批判の片鱗をみることができる。「自他未分離な『自然』への『郷愁』がみられる」(p.14)点でロマン主義の範疇にあるが。

後期ニーチェのディオニュソス概念は、かなり異なったものになっている。ギリシア人が偉大だったのは、ディオニュソス的なものを変換して「現象」へもたらしたことではなく、その二元論を超越していたことにあるのだ。形而上学的な二元論を捨て去ることで、アポロン的なものが退く、あるいはディオニュソス的なものと融合する。つまり、「美的仮象は、ディオニュソス的なものの自己変容に他ならない」(p.15)。

ニーチェによる形而上学の廃棄は以下の論点を含む(pp.16-18):
  1. すべての言説が、身体によって縛られた観察者の視点からくだされる「解釈」にすぎず、「あるものすべては主観的である」ということがすでに解釈であるから、主観というものも否定されている。
  2. 普遍的な視点をもつと吹聴するものは、真理・道徳と呼称するものを言語によって固定化し、言葉による説得で他者に強制し、自らの隠された支配欲を満足させているだけである。
  3. 基督教的、または自由主義的進歩を標榜する歴史観の根拠としての、その目的という観念を放逐する。背後世界が当為の根拠として人間を縛っているのと同様に、歴史に目的を設定することはその目的に向かわせることで人間を拘束する。
  4. 当為に押しつぶされ支配欲にかられた形而上学的な「 自我(Ich)」が否定される。そこに誕生する 自己(Selbst) はどう自らを作るのか。善悪の基準、自らを犠牲にすべき目的、自然な発源を待つべき本質もない。そこには、自らのディオニュソス的な「力への意志」を美的仮象へともたらす道しか残されていないのだ。

とりあえずいまはこれだけで許してください。ちょっと難しすぎる。


2012年7月9日月曜日

登山の誕生(2001)

小泉武栄:自然地理学者。東京学芸大学卒、東京教育大学修士。理学博士。東京学芸大学教育学部教授。


要約

何が人を山に登らしめるのか。それは、何かを征服したいという欲望なのか。それとも、道への憧れなのか。はたまた、危険を顧みず、冒険することへの欲求だろうか。おそらく、現代の登山家たちには、それら全てがあてはまるだろう。しかし、人類はつねに登山をしてきたわけではない。現在と過去を比較することで、登山の本質がみえてくるはずだ。

古代ギリシアにおいて、人々は学問を大成した。かれらは好奇心に満ち溢れていたのである。しかし、古代ギリシア人は山に登らなかった。山は危険とされ、むしろ嫌われた。そうした中、ユダヤ教徒は山に関心をもった。預言者は山で神と交信する。

中世においては、キリスト教信仰のために人々の好奇心は抑圧された。山々は、魔女や怪物の住む恐ろし場所だった。しかし、西洋的な理性が実現されるにしたがって、人々は自然を恐れなくなった。発展した都市文化から逃れ、心を休める場所として自然が意識されるようになる。こうした自然のなかで、山も例外ではなくなった。文学は山を美しいものとして描写するようになる。そして、山頂を征服する現代の登山が徐々に盛んになってくる(ここの飛躍は、正直よくわからなかった。読みなおしてみよう)。

日本の場合は事情が全く異なる。万葉集にはすでに、男女が連れ立って、娯楽のための登山を行なっている様子が推察される句がいくつもある。仏教が伝来し、修行のために山に入る者や、空海の高野山に代表されるように、山を開いて寺社を建てる者もあらわれてくる。仏教以前からも山岳信仰というものはあったようだ。

江戸時代にはいると、娯楽としての登山が、再び盛んに行われるようになる。娯楽とは別に、成年になる儀式として登山を行わせることも多かった。この場合は、地域で決められた山頂を制することが目標とされる。明治維新後は、さまざまな西洋文化とともに西洋流の登山も輸入されてきた。しかし、日本アルプスなど、信仰・娯楽登山の対象とされていなかった地域に登る場合は、20世紀前半であっても、鉱物を探しに行くのか、などと不思議がられたという。


この本について

登山というものに殆ど興味がない。友人になんで登山がするのか、ときいたときに、要約の冒頭のような答えが返ってきたのだが、なかなか納得できなかったのでこの本を読んでみた。読んでからしばらくたっていて、現物が手元にないので、要約は間違っている箇所があるかもしれない。

要約は殆ど、登山の歴史的な淵源についてだが、ほんとうは歴代の登山家たちのエピソードも多く掲載されている、登山好きの本なのかもしれない。なぜ、わたしは山に登るのか、というのを自身で不思議に思った者、自分のする行為に深い理解を求める者のための書物。