小泉武栄:自然地理学者。東京学芸大学卒、東京教育大学修士。理学博士。東京学芸大学教育学部教授。
要約
何が人を山に登らしめるのか。それは、何かを征服したいという欲望なのか。それとも、道への憧れなのか。はたまた、危険を顧みず、冒険することへの欲求だろうか。おそらく、現代の登山家たちには、それら全てがあてはまるだろう。しかし、人類はつねに登山をしてきたわけではない。現在と過去を比較することで、登山の本質がみえてくるはずだ。
古代ギリシアにおいて、人々は学問を大成した。かれらは好奇心に満ち溢れていたのである。しかし、古代ギリシア人は山に登らなかった。山は危険とされ、むしろ嫌われた。そうした中、ユダヤ教徒は山に関心をもった。預言者は山で神と交信する。
中世においては、キリスト教信仰のために人々の好奇心は抑圧された。山々は、魔女や怪物の住む恐ろし場所だった。しかし、西洋的な理性が実現されるにしたがって、人々は自然を恐れなくなった。発展した都市文化から逃れ、心を休める場所として自然が意識されるようになる。こうした自然のなかで、山も例外ではなくなった。文学は山を美しいものとして描写するようになる。そして、山頂を征服する現代の登山が徐々に盛んになってくる(ここの飛躍は、正直よくわからなかった。読みなおしてみよう)。
日本の場合は事情が全く異なる。万葉集にはすでに、男女が連れ立って、娯楽のための登山を行なっている様子が推察される句がいくつもある。仏教が伝来し、修行のために山に入る者や、空海の高野山に代表されるように、山を開いて寺社を建てる者もあらわれてくる。仏教以前からも山岳信仰というものはあったようだ。
江戸時代にはいると、娯楽としての登山が、再び盛んに行われるようになる。娯楽とは別に、成年になる儀式として登山を行わせることも多かった。この場合は、地域で決められた山頂を制することが目標とされる。明治維新後は、さまざまな西洋文化とともに西洋流の登山も輸入されてきた。しかし、日本アルプスなど、信仰・娯楽登山の対象とされていなかった地域に登る場合は、20世紀前半であっても、鉱物を探しに行くのか、などと不思議がられたという。
この本について
登山というものに殆ど興味がない。友人になんで登山がするのか、ときいたときに、要約の冒頭のような答えが返ってきたのだが、なかなか納得できなかったのでこの本を読んでみた。読んでからしばらくたっていて、現物が手元にないので、要約は間違っている箇所があるかもしれない。
要約は殆ど、登山の歴史的な淵源についてだが、ほんとうは歴代の登山家たちのエピソードも多く掲載されている、登山好きの本なのかもしれない。なぜ、わたしは山に登るのか、というのを自身で不思議に思った者、自分のする行為に深い理解を求める者のための書物。
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