要約
甘粕正彦は陸軍幼年学校、陸軍士官学校を出て、軍人の道を歩み始めた。しかし、落馬事故が原因となり、歩兵から憲兵に転科せざるを得なかった。憲兵とは治安警察のことである。甘粕が大尉になって、憲兵分隊長を勤めていたときに関東大震災が起こる。
混乱に乗じてアナキストが政府転覆を狙っていると考えた憲兵隊は、大物アナキスト大杉栄を連行し、同行していた内妻伊藤野枝と大杉の甥橘宗一6歳とともに殺害し、古井戸に投げ捨てた。大杉事件である。事件は新聞によって明るみに出、隠しきれなくなった憲兵隊は甘粕を差し出した。甘粕は被疑者として軍法会議にかけられる。甘粕は単独犯行を主張し、裁判は事実関係が有耶無耶のうちに終わる。10年の刑期を言い渡された甘粕は千葉刑務所に収監される。
恩赦や、模範囚としての働きがあり、3年弱で刑務所をでた甘粕は、収監前に婚約を結んでいたミネと婚姻し、夫婦で仏国へ渡る。費用は陸軍からでていたようだ。出所以降、至る所で陸軍が甘粕の手助けをするのは、憲兵が組織ぐるみで行った犯行を全て甘粕一人に被せた口止め料だったのかもしれない。
新婚の仏国滞在は甘粕にとって鬱屈したものであって、結局なにもできずじまいだったようだ。1930年に帰国後、甘粕はすぐに満州に渡る。当時、刑期を経験したものや、社会のはみ出し者は多く新天地を求めて満州へ行った。渡満後数年の甘粕のことはあまりよくわかっていない。そこで甘粕は陸軍絡みのパイプを頼りに、関東軍と伴に謀略工作に従事するようになる。
1931年の満州事変以降、奉天で日本大使館に爆弾を投げ込み、元清朝皇帝愛新覚羅溥儀を連行するなど、満州国の建国に貢献した。民政部警務司長に就任し、その後宮内府諮議となる。大東公司を設立し、苦力(クーリー・中国人労働者)の満州国への入国を管理する傍ら、入国料の徴収から莫大な資金を手にし、政治工作や謀略に役立てていたようだ。満州の昼は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配するといわれるほどの実力者になった。1938年には訪欧使節団副団長として欧州を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラー、フランコらと対談した。
1939年、満洲映画協会(満映)理事長に就任、関東軍との癒着で赤字体質だった満映を立て直す。甘粕は当時でも大杉殺しで知られており、その極度の合理主義や一見傲慢にみえるその態度などからはじめは警戒されていたが、極度に低かった中国人の賃金を底上げし、プロパガンダ映画の否定、思想の左右を問わず役立つ人材を登用する姿勢などから、次第に支持を獲得していった。満映の従業員は多く東映の設立に関わり、戦後日本映画の基礎をつくった。
熱狂的な天皇信奉者であった甘粕は、戦争に負けたら自死すると決めていた。玉音放送の後に甘粕は全従業員を集め、自刎の志を述べ、従業員のこれまでの働きを労い、形見の品々を一人ひとりに手渡した。甘粕は自殺に向けて、満州興業銀行の総裁に電話し、渋る総裁を恫喝して従業員の退職金の引き出しと、満映の当分の運転資金の融資を約束させた。
満映社員は理事長が自殺しないように寝ずに見張り、身の回りから刀やピストルを奪うなどしていたのだが、甘粕は遺言状とともに満州興業銀行の総裁宛に「二百万円貸して下さい。貸さないと死んでから化けて出ます」と書き残し、隠し持っていた青酸カリを服毒して死んだ。
この本について
甘粕大尉の伝記。伝記は往々にしてフィクション的な要素が強く、歴史的な叙述は退屈になってしまう。著者はそのバランスを考えて、できるだけ甘粕の人間性や味わい深いエピソードなどを細かく叙述しつつも、資料や証言に基づいた事実だけを伝えるように努めている。手法としておもしろいし、最後まで全く飽きずにぐいぐい引きこまれながら読めた。著者が自ら行った数多くのインタビューから、人間としての甘粕がいきいきと伝わってくる。
上のように年表形式でまとめてしまうと、甘粕は結局なにをやった人で、なぜ一冊の本にとりあげられるものかわからない。私は映画「ラスト・エンペラー」をみて、満州国の舞踏会でひとり無表情で参加者に撮影機を向ける甘粕という人物に興味をもったから、この本を手にとった。あの映画で坂本龍一が演じる甘粕は、満州国の陰の実力者であり、狂信的天皇崇拝者、感情をもたない冷徹な合理主義者として描かれている。
甘粕は、大杉事件の首謀者、満州国の謀略家、満映の理事長と三つの顔をもっている。大杉事件については、自ら手を下したわけではないらしい。少なくとも子どもはやってないようだ。謀略家としては、石原莞爾、板垣征四郎などと交流し、関東軍ができなかった汚い仕事を引き受けていたらしい。満映については、甘粕は戦後の日本映画界に少なくない影響をもたらしたといえるかもしれない。
甘粕正彦は満州の可能性を愚直に信じ、その発展に寄与しようとした人物であった。私はこれを機に太平洋戦争や満州のことを調べていて、満州とはなんだったのかなあ、と考えている。
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